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山極前京大総長のコラム、例えが霊長類学者らしいのだが、言いたいことはよくわかる
◆(科学季評)排除より集団の拡大、進化したはずの人類 「よそもの」量産、SNSの世 山極寿一【朝日新聞 2026年3月12日】
最近、日本では外国人を排斥しようとする動きが強まっている。インバウンドが急速に増え、軽装での富士山登山の強行や神社の落書き、強盗などの犯罪が頻繁に報道されていることが原因だろう。また、米国をはじめとして移民を排斥する傾向が先進国で目立ち始め、日本でも仕事や権利を奪われるのではないかという不安が広がっていることもあるだろう。今回の衆議院選挙でも、外国人居住者の数や権利を制限しようとする政党が出てきた。異文化共生社会を目指してきた日本の姿勢が問われている。
出自、外見、言葉、ふるまいなどの違いを理由に「よそもの」として排除する傾向は子どもにも表れている。ささいな言動や行為をとがめられていじめに遭い、学校に行く意欲を失う子どもが増えている。不登校の小中学生は35万人を超え、厚生労働省によると2025年の小中高生の自殺数は532人で過去最多となった。19歳以下の自殺の原因や動機のトップは学校問題だ。いったい何が学校で起きているのか。なぜ人間は同じ人間を「よそもの」として差別しようとするのか。
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群れをなして暮らす動物として、人間を含む霊長類は他者を区別し分類する能力を高めてきた。最初の霊長類は6500万年前に地球上に現れ、夜の樹上に単独で縄張りを作って暮らすネズミほどのちっぽけな動物だった。自分以外は「よそもの」で、縄張りに侵入すればだれでも追い払う暮らしだった。それからオスとメスがペアで縄張りをつくる種が現れ、昼の世界で暮らし始め、体を大きくして複数のオスやメスを含む群れを作り始めた。群れが大きくなると小さな縄張りでは食物が足りず、地上に降りて行動域を広げた。しかし、広い縄張りを守り切ることができず、隣接する群れと重複せざるを得なくなった。群れ社会はオスかメスのどちらかが群れの間を渡り歩く傾向を持つようになる。すると、仲間が群れを出て「よそもの」になったり、「よそもの」が入ってきて仲間になったりするようになる。さらに、大きな群れでは内部に血縁関係や優劣関係によるグループがいくつもでき、食べものや休息場所をめぐり対立が生じるようになった。ここに、人間が「よそもの」を作る社会性の端緒がある。
しかし、人類は「よそもの」を作って排除するより、なるべく対立を解消しながら集団を大きくする方向へと進化したはずだ。人類の脳が大きくなり始めたのは200万年前で、集団の規模の拡大に対応したという社会脳仮説がある。人間以外の霊長類の脳の大きさと集団規模を比較すると、大きな集団で暮らす種ほど脳が大きい。人類が現代人のような言葉をしゃべり始めたのはせいぜい10万年前で、その頃すでに人類の脳は現代人並みに大きくなっていた。だから、人類の脳は言葉をしゃべり始めて記憶量を増やしたのではない。脳が大きくなった結果として言葉をしゃべる能力が出てきたのだ。すると、人類の脳も他の霊長類と同じ、集団規模の拡大に対応して大きくなったに違いない。つまり、仲間の身体や行為の特徴をよく認識して、それぞれに合った対応をするように脳は容量を増したと考えられるのだ。
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その能力とは何だったのか。人類の社会は家族と、複数の家族を含む共同体という二重構造が基本になっており、集団規模の拡大は、この基本構造の成立をきっかけにしていたと思われる。家族と共同体という性質の異なる組織を両立させるためには、異なる役割を自覚して担わなければならず、高度の認知能力が必要となるからだ。つまり、まず家族と他の仲間を区別し、それから共同体の中で自分が所属するグループを意識し、さらに、共同体の内と外を区別するようになった。そして、人類にはこの親疎の関係に応じて集団のために尽くすことが喜びになる、という不思議な精神性が育った。
動物は自分の利益を上げるために群れに属しているので、自分の利益が下がれば群れを離れる。でも、人間は自分の利益を犠牲にしても集団のために尽くそうとする。その結果、人間は比較的自由に集団を出入りできるようになった。ゴリラもチンパンジーもサルも一度自分の群れを離れたら、なかなか戻ることはできない。彼らは目の前から消えたら死んだことと同じで、見知らぬ場所で暮らして帰ってくれば「よそもの」として扱われる。でも人間は長期間離れていても、また元の仲間に受け入れてもらえるし、別の集団に入ることもたやすい。現代では個人が日常的に複数の集団を渡り歩いて暮らしている。さらに、個人が複数の集団に属することで、集団どうしをつなげるようになった。この能力が人類の社会を拡大し、集団内外で多様な関係を作ることに貢献したのだ。
人間は動く、集まる、対話するという三つの自由を駆使して社会を拡大してきた。しかし、SNSの普及は言葉で人々を小さく分断し、差別と対立を深めている。そもそも違いとは、人々が出会い気づきをもたらす源泉だった。それが今、出会いと対話を妨げる要因になっている。SNSは人々に事実よりも心地よい言葉を与え、敵意を増幅して閉鎖的なつながりを強める。多様性を認めず、わずかな違いで「よそもの」が量産され、監視をAI(人工知能)に依存するようになれば、さらに自由が束縛され窮屈な社会になるだろう。