goo blogサービス終了のお知らせ
この度、2025年11月18日をもちまして、
goo blogはサービスを終了することとなりました。
・・・ということで、21年にわたるgooブログのサービスが今秋に終わってしまうそうです。
私が個人的にお気に入りとしてブックマークしているgooブログの方も少なからずいらっしゃるので残念ではありますが、問題なのは今回のアナウンスを機にスッパリと辞めてしまうか、どこか別のサービスなり手段なりを使って移転しながら続けるか、運営している方それぞれのお考えや事情次第ということです。
かつてYahoo!がホームページサービスを辞めてしまったり、インターネットブロバイダが同様のサービス提供を辞めてしまったりで、気がついたら“記録”として大変重宝していたウェブサイトがヒッソリかつゴッソリと失くなってしまって臍を噛んだことが何度となくありました。無くなってしまったら魚拓も取れなくなりますし。
今秋に終わるgooブログには1つのサイト丸ごと保存したいというのはなくとも、個々の投稿にはオペラ鑑賞で大いに参考になるので残しておきたいというのがあって、それが『クラシック音楽オデュッセイア』[https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex]というブログにある、レスピーギ『沈鐘』・ドヴォルザーク『ルサルカ』・ヤナーチェクのオペラに関するものです。
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カリアリ歌劇場が2016年に上演したレスピーギの歌劇『沈鐘』をBlu-rayで観た私はとても感動して、管弦楽作品と比べて日本語の情報がとても少ないレスピーギのオペラに関して、ネットでいろいろ探して見かけたのが『クラシック音楽オデュッセイア』で20年前に書かれた投稿でした。そして“ウンディーネ”繋がりでドヴォルザークのオペラ『ルサルカ』にも興味を持ったし、ヤナーチェクのオペラもいずれ機会があればBlu-rayで、と考えるようになりました。
他の、例えばイタオペ等々のはほとんど何も参考になりませんが(ヴェリズモ大嫌いなのに加えてベルカントについては的外れに思える)、前述した『沈鐘』と『ルサルカ』とヤナーチェクのオペラ、他にも参考になりそうなリムスキー=コルサコフのオペラの部分は保存がてら引用して残しておくことにします(URLはいずれ消えてしまうとはいえ引用なら現時点で存在するものはキチンと記述すべきなので一緒に転載)。
「四大元素と妖精たち」2005年12月01日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/be97d7ad3df9ae91593ba933d13db654]
前回までの話の最初の方で、ニールセンの第4交響曲に付けられた<不滅>という標題の意味に少し触れたが、その「燃え尽きた灰の中に、まだ消えない炎がある」という言葉から、私は想像上の生物を二つ、思い出した。一つは、不死鳥フェニックス。そしてもう一つは、火とかげサラマンダーである。どちらも燃える炎の中に消し難き生命を持つ者たちだ。フェニックスは特に有名で、「そんな名前、聞いたことない」という人の方がむしろ珍しいんじゃないかと思う。ちょっと大きな英和辞典でphoenixを調べてみたら、これはエジプト神話に出てくる想像上の鳥で、「500~600年ごとにアラビアの荒原に燃料を積み重ねてその中で焼死し、灰の中から再び若い姿になって甦る」という伝説があるのだそうだ。
しかし、クラシック音楽の作品史を語る上では、そのフェニックスよりも、もう一つの方、つまり火とかげサラマンダーの方がより注目に値する。と言っても、サラマンダーそのものがクラシック作品のモチーフになっている例は、少なくとも有名作品の中にはおそらく無かったと思う。むしろ、このサラマンダーを含んだ「四大元素」の妖精たち、すなわち、地、水、火、風のそれぞれに付けられた妖精たちの中に、独立したクラシック作品の系譜を持つものが見出せるのである。
まずは、その四大元素なる概念についてだが、これは古代ギリシャの哲学史を紐解くとそのルーツに出会うことが出来る。タレスという人が、「万物のアルケー(=根源)は水である」と考えたところから西洋哲学史はスタートするが、その後たくさんの哲学者達が登場して、ああだ、こうだと議論を始めるわけである。その中で、「万物の根源的要素は、地、水、火、風の4つであり、それらが様々な比率でくっついたり離れたりして、いろいろな物が生成・消滅するのだ」と唱えたのがエムペドクレスであった。さらにこの方、「それらの生成・消滅を発生させる力は、愛と憎しみである」なんて事もおっしゃったらしい。今の感覚で読むと何ともユニークな発想だが、このエムペドクレスの哲学がおそらく、四大元素という概念の出発点だろうと思われる。
時代が中世に進むと、パラケルスス(1493~1541)という人物が登場する。この人は中世ヨーロッパのオカルティズムとして現今伝えられる錬金術なるものに没頭していた一人で、例えば、鉛を炎で熔かして金(きん)を作ろうなどといういかにも怪しげな研究をやっていたらしい。しかし同時に、「錬金術を医薬の製造に役立てるべきだ」と主張して、医療学派の祖となった人物でもあったそうだ。このパラケルススが著作の中で、エムペドクレス以来の四大元素にそれぞれ妖精たちのイメージを与えたと伝えられている。これはネット上でもあちこちのサイトで紹介されている話なので、当ブログでは簡単に列挙するにとどめたい。四大元素の妖精たちとは、以下の四名(?)である。
地の精グノーム : Gnome(=英語読みは、ノウム。「地下に棲む小人」の古典的イメージ。)
水の精ウンディーネ : Undine(=フランス語流には、オンディーヌ。小娘の姿が一般的。)
火の精サラマンダー : Salamander(=鉛を熔かす炎から、トカゲの姿がイメージされた。)
風の精シルフ : Sylph(=優美な女性の姿が一般的で、女性名はシルフィード。)これらの妖精たちについては、かなり詳しい解説を施したサイトが簡単に検索で見つかるので、興味の向きはその方面に当たっていただけたらと思う。さて、「上に並べた妖精たちのどれが、クラシック音楽史に一大系譜を持っているか」という事については次回以降のシリーズに譲るとして、今回は、四大元素そのものをモチーフにしたクラシック作品に少し触れて話を締めくくりたいと思う。
フランス・バロック期の作曲家ジャン=フェリ・ルベル(1666~1747)のバレエ音楽<四大元素 Les Elements>が、クリストファー・ホグウッドの指揮によるLPで登場して一部のクラシック・ファンをびっくりさせたのは、もう何年前になるのだろうか。この曲冒頭の「カオス(=混沌)」には私も当時本当に驚かされた。ドジョワァ~~~ン!と来るあの強烈な不協和音は、書かれた時代からすれば相当に過激な物だったと言うべきだろう。この記事を書くに当たって、先頃ちょっと本で調べたら、ルベル作品にあっては低音部が大地、フルートが水、ピッコロが大気、ヴァイオリンが火をそれぞれ担当しているのだそうだ。この曲も「カオス」から後はごく普通のバロック・バレエになって安心させるのだが、とにかくあの出だしはショッキングだった。併録されていたデトゥーシュの<四大元素>なんか完全に吹き飛んでしまって、そちらについてはもう何も覚えていない状況である。
一方、スペイン・バロック期の作曲家アントニオ・デ・リテレス(1673~1743)作曲による歌劇<四大元素 Los Elementos>の全曲CDを購入して聴いたのは、そんなに前の話ではない。エドゥアルド・ロペス・バンゾという人が指揮するアル・アイレ・エスパニョールというグループによる演奏だ。英文の解説によると、この作品はもともと6人のソプラノ歌手が舞台に登場して歌うもので、コーラスにテノールが一人加わっているのを別とすれば、完全に女性だけのキャスティングで書かれたものだそうである。作曲当時の上演劇場での人間関係等、いろいろやむを得ない事情があったのと、男役を女性歌手が歌っても別におかしくないという認識が行き渡っていたことから、そのような形で仕上げられたものらしい。バンゾ盤では、「風(空気)」と「水」がソプラノで、もともと男性のイメージがある「火」と「大地」はメゾ・ソプラノが受け持っている。そこに合唱の一員としてのカウンター・テナーと、「時」を歌うバリトン歌手が一人ずつ参加してくるという形で録音されている。
四つの元素たちの中では特に、「風」を歌うソプラノに主役っぽい存在感がある。彼女が歌ういくつかのアリアのうち、トラック17で聴かれる「夜明けの腕の中で」はとりわけ印象的なものだ。また、風、大地、水の三人が揃って歌うトラック13の三重唱は、ちょっとモンテヴェルディのオペラを髣髴とさせるような勢いを持っている。また、最後を締めくくるトラック23を中心に、随所に出てくるカスタネットの響きがいかにもスペインらしい雰囲気を与えている。しかし、「カスタネットが出てくるから、スペインの音楽だ」などと言ったら、それはいかにも幼稚であるとの謗(そし)りを免れ得ないだろう。この作品は副題にもある通り、“イタリアの流儀で書かれたオペラ・アルモニカ”であって、その音楽的な作りはあくまで、当時のイタ・オペなのである。
少し前の『レコード芸術』で、「バロック・オペラを見直す」みたいなテーマの記事を見かけたが、モンテヴェルディの三大歌劇ならともかく、果たしてヴィヴァルディやスカルラッティ、あるいはその周辺の作家たちのオペラ作品が今後恒久的にファンを獲得していくのかどうか、何とも予想し難いものがある。バロック歌曲がもともと好きな人にとっては良い物に出会える期待が持てようけれども、一般のクラシック・ファンにはちょっとどうかなあ、という思いを禁じ得ないのだ。
「フーケーの『ウンディーネ』」2005年12月05日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/016937b76746e5a8a3c27527741fe5a2]
水の妖精ウンディーネ。波を意味するラテン語のウンダ(Unda)からその名を授かったこの魅惑的な妖精は、クラシック音楽の作品史上に一大系譜を持っている。それゆえ、前回語った「四大元素の妖精たち」の中でも、ウンディーネには特別な存在感がある。では、その直接的なきっかけとなった文学作品は何かと言えば、やはりフリードリッヒ・ド・ラ・モット・フーケー男爵の『ウンディーネ』(1811年)ということになるだろう。『水妖記(すいようき)』という別題が使われることもあるフーケー作品と、その前後の歴史的文脈については後々の回にまとめるとして、今回はまず、そのフーケーの名作『ウンディーネ』の筋書きを確認しておきたい。これは全19章からなる作品だが、以下は各章ごとの物語の概要である。
1.馬に乗って森から出てきた騎士フルトブラントが、湖のほとりにある老いた漁師夫婦の家に宿を求めて立ち寄る。そこには、ウンディーネといういたずらな小娘がいた。老夫婦の養女だという。
2.森での体験談を騎士から聞かせてもらえないことに怒ったウンディーネは、家を飛び出す。騎士は老人から、ウンディーネが現れたときの話を聞く。老夫婦には赤ちゃんがいたのだが、その子はある日、湖の中に引き込まれて消えてしまった。嘆く二人のもとに、ひょっこりとウンディーネが現れたという。
3.外はやがて、嵐になる。フルトブラントは濁流に浮かぶ小島の上にウンディーネを見つけ、抱き寄せる。
4.騎士は、森で体験した事を語る。侯爵の養女ベルタルダにけしかけられて、恐ろしい森へ入るはめになったこと。自分が乗っている馬が暴れ出して崖から転落する直前、白衣の大男が現れて馬を止めたこと。そして、それが実は小川だったこと。醜悪な小人(=地の精グノーム)に絡まれたこと。その後も、白衣の男が進む道を否応なしに指図してきて、ついに、この漁師の小屋に辿り着いたこと。
5.川の奔流がいや増して、騎士は出発できない。いきおい、漁師一家との生活を続けることになる。彼は、ウンディーネの無邪気な純粋さと可愛らしさに惹かれていく。
6.嵐の夜にはあり得ない事なのに、小屋の戸をノックする音。一同、ぎょっとする。しかし来訪者は魔物ではなく、立派な僧侶だった。ハイルマン神父と名乗るその人物は、洪水続きの危機を司教様に伝えようと船出したところ、待ち構えていたような嵐に襲われ、この小屋に辿り着いたのだという。この夜、騎士は自分の思いに決まりをつけた。神父の立会いで、ウンディーネとの結婚式を挙げたのである。
7.ウンディーネと神父の対話。ウンディーネは、神父を驚かせるような事を言う。「魂(たましい)って、きっと良い物なんでしょうね」。
8.ウンディーネは夫となった騎士に自然界の妖精たちの話を聞かせ、自分もまた水精ウンディーネの一人であることを打ち明ける。「妖精たちには魂がなく、水の妖精も死ねばただの水泡になります。でも魂を得れば、苦悩も生じるのですが、より一層の高みに向かえるのです。でも、妖精が魂を得るためには、人間と愛の絆で結ばれることしかない。私の父である水霊の王は、私にその機会を与えるように計らったのです。この小川は、私の叔父キューレボルン。彼が私を、あなたと出会ったこの漁師さんたちの小屋に連れて来てくれたのです。今の私の話を聞いて私をお嫌いになったら、どうぞこのまま、お一人でお帰りください。叔父が私を、親のもとへまた連れ帰ってくれるでしょう」。しかし、この不思議な話を聞いた後も、夫フルトブラントの愛情は変わらなかった。
9.ウンディーネ、フルトブラント、そしてハイルマン神父の三人が旅立つ。やがて道すがら、一人の大男が姿を現し、ウンディーネに近づいて囁く。「わしがお前を護っていることを、忘れるなよ。お前の婚礼を行なったあの神父を、お前のいる小屋へ導いたのも、このわしなんだからな」。しかし、騎士の妻となったウンディーネの方は、この大男、つまり叔父のキューレボルンとはもう関わりたくない気持ちになっていた。
10.騎士フルトブラントの失踪を案じていた町の人々は、彼が神父ともども新妻まで連れて帰ってきたことに大喜びする。侯爵の養女ベルタルダは内心彼を好いていたので、ショックを受ける。しかしウンディーネは、彼女に対して何か不思議なつながりを感じて好意を持つ。それから後、騎士がもともと住んでいたリングシュテッテンの城まで向かうことになったが、ベルタルダも一緒に行く運びとなった。その途中、井戸掘り職人の親方がウンディーネに近づいて、何かコソコソと耳打ちする。
11.ベルタルダの聖名祝日。ウンディーネは井戸掘り職人の親方(実はキューレボルン)から聞いた話を、一同に披露する。ベルタルダはもともと漁師夫婦の間に生まれた子供であったこと、水の精キューレボルンによってさらわれ、侯爵夫妻に拾われるように運ばれたこと、そして自分がベルタルダのかわりに漁師の養女として育てられたこと、などである。老漁師夫婦もパーティに呼ばれており、親だけが知っているベルタルダの隠れた肉体的特徴を老女が指摘したことで、その話が事実であると証明されたのだった。
12.パーティの席上で本当の両親である老漁師夫妻を口汚くののしったベルタルダは、侯爵から勘当されて追い出された。老いた漁師もまた、「恐ろしい森を一人で抜けて来られたら、お前を娘として迎えてやろう」と言い残して去っていった。ウンディーネは捨てられたベルタルダを、夫と住まう城へ連れて行ってやることにする。
13.城の中で、だんだんと尊大に振舞い始めるベルタルダ。その後、しばしば白衣の大男が現れて彼女を恐れさせるようになる。ウンディーネは家来に命じて、井戸の口に大きな岩を置かせる。それは、キューレボルンをはじめとする水の精たちが地上に出てくる通路をふさぐためであった。事情を聞いたフルトブラントは、ウンディーネに理解と愛情を示す。一方、彼に叱責されたベルタルダは、城を飛び出していく。
14.「黒が谷」という恐ろしい場所へ行ってしまったベルタルダを探しに、フルトブラントがやってくる。ベルタルダに化けたり、通りがかりの御者に化けたりと、キューレボルンがあの手この手で攻めて来る。そして騎士とベルタルダがいよいよ大水に飲まれて命を落としそうになる直前、ウンディーネが駆けつけて二人を救う。
15.ウィーンに向かうドナウの川くだり。ウンディーネ、フルトブラント、ベルタルダの三人を乗せた船の周りに水界の魔物たちが出現する。「それだけは、しないで」というウンディーネの懇願もむなしく、フルトブラントはついに水の上で彼女を罵倒してしまう。水中に消えてゆくウンディーネ。
16.時が経ち、騎士はやがてベルタルダとの結婚を考えるが、ハイルマン神父が止めに来る。枕辺にウンディーネが現れ、「私は生きていますから、彼の再婚を止めてください」と頼んだのだと言う。しかし、その説得も騎士には効果がなかった。
17.フルトブラントの夢の中に、ウンディーネとキューレボルンが現れる。魂を持ったことの幸せを語るウンディーネ。水の世界の掟により彼が再婚してはいけないこと、もしすれば、彼は死をもって償わねばならなくなることを、キューレボルンとのやりとりを通じて伝える。しかし、目を覚ましたフルトブラントは、「変な夢だったな」ぐらいにしか受け止めなかった。
18.フルトブラントとベルタルダの婚礼の日。式を司(つかさど)る神父は、事情を何も知らない人が呼ばれた。盛り上がらないパーティの散会後、ベルタルダは首に出来たそばかすがいやだと、塞いであった井戸の水についてほのめかす。「あの井戸水が、私の肌には良かったのよねぇ」。気を利かせた侍女が家来に命じて岩をどけさせた。すると地中から押し上げてくるように水が噴き出し、ウンディーネが現れる。彼女はフルトブラントの部屋まで進み、彼を抱きしめて接吻する。ウンディーネのあふれる涙が、彼の目に入る。彼女の腕に抱かれながら、フルトブラントは静かに息を引き取る。
19.ハイルマン神父が、亡くなった騎士の葬儀を執り行う。騎士フルトブラントの家系は、彼の死をもって断絶した。その葬列に、途中から不思議な女性が加わる。騎士の墓前に皆で跪き、祈っているうちに女は消えた。やがて、そこから泉が湧き出し、騎士の墓を取り巻くようにして流れ、墓地の脇にあった池へと流れ込んでいった。人々はこの泉こそウンディーネであり、愛しい人をいつまでも両の腕に抱き続けているのだと信じて疑わなかった。
―ちょっと長くなってしまったが、このフーケー作品の粗筋だけはご紹介しておきたかった。実はそうしないと、次回から本格的に始まる《ウンディーネ・シリーズ》のお話が、ごく一部の人にしか分からないような展開になってしまうからである。もっとも、上に書いたのは必要最低限の粗筋だけなので、より細かいニュアンスについては、原作でご確認いただけたらと思う。
前回はフーケー男爵の傑作『ウンディーネ』(1811年)の筋書きをご紹介するに留まったので、今回からが本題となる。まず、このフーケーの作品には2つの重要モチーフが存在することを確認しておきたい。
第1のモチーフ : 魂を持たない精霊(エレメント)は、人間との愛の絆によって魂を得ることが出来る。
第2のモチーフ : 精霊界が定める貞節を破った人間は、死の報復を受ける。物語の前半では第1のモチーフが、後半では第2のそれが、巧みに配剤されて効果的な展開を実現しているのがフーケーの名作『ウンディーネ』の特徴だ。そして、その二大モチーフの両方、あるいはどちらか一方を踏襲する形で、ウンディーネの末裔(まつえい)と呼び得るキャラクターたちが、後の時代に何人か登場してくる。今回からの本題というのは、まさにその「ウンディーネと、その末裔」について語ることである。
まずタイトルと基本プロットを限りなく尊重しているという点で、フーケー作品を一番そのままに引き継いでいるのは、ジャン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』(1939年)であると言えるだろう。ただし、さすがに時代が20世紀に入っていることもあって、ジロドゥの作品には独特のひねりが加えられており、また苦味もある。一回読み通しただけですぐにその含意を読み切れる人は少ないのではないか、という気がする。私の場合は恥ずかしながら、巻末の解説を見て初めて、「ああ、そういう事だったのか」とようやく得心した次第であった。ただ、ジロドゥ作品について語り始めるとクラシック音楽の話から逸れ過ぎてしまうので、ここではその概要だけを書いておくことにしたい。
{ 騎士のハンスは、「陳腐でなく、日常的でなく、擦り切れていないもの」を捜し求める人物で、老漁夫の養女オンディーヌにその理想を見出す。騎士は彼女を妻にする。しかしオンディーヌは、人間たちの社交界にあっては異質な存在にならざるを得ず、騎士は後悔し始める。水界の王はもとから騎士の貞節を疑っていたので、彼の許婚であったベルタと再会させて、その心を試そうとする。ハンスは次第にベルタと、“焼くぼっくいに火がついた”状態になっていく。掟による死をもたらされる運命からハンスを救おうと、オンディーヌは必死に彼をつなぎ止めようと努力する。しかし、ハンスがオンディーヌの真の貞節に気づいたのはベルタとの婚礼のときであり、その時にはすでに彼の脳は狂気に冒され始めていた。死の間際になって初めてハンスは、オンディーヌと愛を自覚し合うひと時を過ごし、そして息を引き取る。水界の王は、オンディーヌへの心づくしとして、騎士ハンスについての記憶を消してやることにする。最後は、王に手を引かれて去って行くオンディーヌの一言で幕となる。「この人を、生き返らせてはやれないの?惜しいわ。きっと好きになれたのに・・」。 }
さて、上で最初に確かめた2つの重要モチーフのうち、第1のモチーフを踏襲した一番の有名作が、おそらくアンデルセンの『人魚姫』(1837年)ということになる。人間の姿になって悲しい日々を送った後に、空気の精として昇華するこの海の精霊は、まぎれもなくウンディーネの末裔である。ウンディーネとの共通点としては、「魂を持たない人魚は、毎日楽しく遊んで300年ほど生きた後、泡になっておしまい」という前提がまず指摘できる。そして、人間の王子に恋をした主人公が、「人間との愛の絆によって、不滅の魂を得られる」という人生を切望し、魔女の力で人間にしてもらう点がそれに続く。
魚だった下半身が魔の薬によって二本の脚に分かれる時の激痛、そしてその後も一歩歩くたびにナイフで切られて血を流すような痛みに耐えねばならない宿命。その上彼女は、その姿を得る代償として魔女に舌を切られて、一番の魅力であった声まで失う。人間の姿になった彼女が王子に対して出来ることは、目で気持ちを訴えることと、痛みに耐えつつ美しい踊りを披露することだけである。しかも王子の方は、自分が海で溺死するところを救ってくれたのが別の女性であると考え(※これは仕方ないことだが)、人魚姫のことに最後まで気づかずじまいで終わってしまうのだ。さらに作者アンデルセンは邪悪にも(?)、王子との縁談に現れる隣国の王女を王子の理想通りの姿で登場させ、ますます主人公を蚊帳の外に追いやる展開を仕掛ける。王子と王女の婚礼の日に水夫たちが楽しく踊るのを見て人魚姫は、自分が初めて海面に出た時の感動を思い出して一緒に踊りだす。そしてそれは、彼女の生涯最後にして最高の踊りとなった。
人魚姫が元の姿にもどれるただ一つの方法は、魔のナイフで王子を殺してその血を脚に浴びること。彼女の姉たちが、そのナイフを得るために自分たちの髪の毛を魔女に与え、丸坊主になった姿で海面に現れる場面が結構泣かせる。しかし、人魚姫は王子を殺したりはせず、夜明けとともに自らが消滅する道を選ぶ。彼女はその後、「空気の精として300年間善行を続ければ、永遠の魂を得られる」という資格を身につけて、天に昇っていく。
この『人魚姫』がすぐれて童話的なのは、思春期の娘が持つエロスへの衝動をモチーフにしながらも、それを直接的な形では出さず、むしろ多分に教訓的な要素を散りばめた点にあると言えそうだ。熱く燃える思いで自らの人生を決めること、苦難に踏み切る勇気、つらい思いに耐える心、そして自分の決断と行動に最後はしっかりと責任を取る潔い態度。いずれを取っても、こよなく教育的な材料ばかりである。ついでに言えば、人魚から人間の姿に変わったことで、彼女に出来るようになった事が少なくとも一つあったのだが、アンデルセン作品にはそのあたりを偲ばせる記述は全く見当たらない。それは、「好きな人のために脚を開く」という行為である。そういう深読みは大人になってからどうぞ、というところだろうか。
さて、アンデルセンの名作をもとに、約44分あまりに及ぶ長大な交響詩を書いたのが、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーであった。マゼールの指揮による<抒情交響曲>が発売された時に初めてこの作曲家の名を知った、という方も多くおられるのではないだろうか。交響詩<人魚姫>について言えば、私の場合、リッカルド・シャイーの指揮による演奏をFMで聴いたのが最初だった。CDは、単に値段が安いからという理由で、数ヶ月前にジェイムズ・コンロンの指揮によるEMI盤を買った。嬉しいことに、これは演奏が良かった。(※廉価盤なので、作品の内容理解に役立つ解説は皆無に等しかったが。)
この長大な交響詩は、3つの部分で構成されている。まず第1部冒頭、不気味さを漂わせた海の情景が巧みな管弦楽法によって描かれる。実に巧い。2分半ぐらいのところで、ヴァイオリン・ソロが人魚姫のテーマを奏でる。これは先々、いろいろな場面で繰り返し利用される重要なテーマである。第1部は約17分の曲だが、真ん中あたり、9分半を過ぎたぐらいから音楽が激しさを増して、嵐の描写となる。王子の船が難破する場面だ。そして13分半を過ぎたあたりから優しいメロディが流れ始めて、嵐のおさまりと人魚姫の歌を表す場面になり、第1部を締めくくる。最後に響いてくる鐘の音が印象的だ。
第2部は、海の中。魔女のところへ人魚姫が行く場面。冒頭から極めて壮麗な音楽が聴かれるが、内容的には怖いところでもある。ものの本によると、ここで聞かれる打楽器のドン!!という衝撃音は、人魚姫が魔女に舌を切断された場面であると解釈出来るらしい。むぐぐっ・・。演奏時間は約13分。
最後の第3部は、人間界で悲しい日々を送る人魚姫を描く。冒頭から、悲しみにあふれる美しい旋律が出て来る。ここは約14分の曲だが、真ん中あたり、約8分のところで音楽が不安定に揺れるのは、魔のナイフを手にした人魚姫の、心の葛藤だろうか?その約40秒後から、第1部の冒頭で聴かれた海のテーマが再現されて出て来る。これで終曲が近いことを予感させる。10分半ぐらいのところからは、いわゆる“浄化の音楽”が始まっていると解釈してよいだろう。空気の精に変容する人魚姫を表す、美しい終曲である。
さて、フーケーの『ウンディーネ』に見られる重要モチーフのうち、第2のモチーフを踏襲した作品についてはもっと後々の回に譲ることにして、次回は、フランス語流に<オンディーヌ>と表記されたタイトルを持つクラシック音楽の作品群から、特に知名度の高い四つを採り上げて語ってみたいと思う。題して、「四つの<オンディーヌ>」である。
【参考文献】
『ドイツ・ロマン派全集 第5巻 フケー・・・シャミッソー』深見茂、池内紀・訳(国書刊行会)
『あなたの知らないアンデルセン 人魚姫』長島要一・訳(評論社)
《ウンディーネ・シリーズ》の続きである。今回は、フランス語流に<オンディーヌ>という題名のついたクラシック音楽作品から、特に有名と思われるもの4つに触れておきたい。
1.ドビュッシーのピアノ曲<オンディーヌ>(1913年)
ピアノのための《前奏曲集・第2巻》の第8曲が、<水の精 オンディーヌ>と題されている。これもフーケーの『ウンディーネ』が元になっての命名だそうだ。しかし、直接的な霊感は、アーサー・ラッカムという人が描いたウンディーネの絵本を見たときに得られたらしい。曲の雰囲気としては、「いたずらっ子ウンディーネ」のイメージが強い。こちらに向かって水をバシャッとひっかけて、ケケケッと笑いそうな感じ。
2.三善晃の音楽詩劇<オンディーヌ>
タイトルはフランス語流に<オンディーヌ>だが、内容はフーケーの『ウンディーネ』を土台にしている。しかし、岸田衿子(きしだ えりこ)氏が書いた当作品の台本には、原作を変更した箇所がいくつかある。例えば、ここでのキューレボルンは水界の王と設定されており、彼が息を吹き込んでオンディーヌが生まれたということになっている。また、これはフーケーの原作をかなりはしょった物なので、いきなり聴いたら、「何だい、この話は」と戸惑ってしまう可能性が高い。話の展開があちこちで、唐突なのである。やはりフーケー作品の粗筋だけでも、予備知識として持っておいた方がよさそうだ。
三善の<オンディーヌ>は、プロローグとエピローグにはさまれた3つの部分で構成されている。人魚姫のように人間界に憧れていたオンディーヌが、騎士ポウルと出会って相惹かれ、彼と愛を結ぶのが第1部の展開。ただし、ここでのキューレボルンはジロドゥ作品に出て来る水界の王と同様、騎士の心を信頼しておらず、二人の結びつきには強く反対している。
第2部は、ベルタルダも登場する人間界でのオンディーヌが描かれる。ベルタルダの出生の秘密が明らかにされる場面を経て、舟の上で夫のポウルにののしられて、オンディーヌが水中に消えるまでの内容。
第3部で騎士ポウルは原作同様、ベルタルダと再婚を果たす。その後、石をどけられた井戸から出てきたオンディーヌによって彼は引導を渡されるのだが、三善作品はそれに続いて、エピローグがある。騎士ポウルが死んだ後に水底の世界に行き、オンディーヌと再び結ばれる場面で終曲。
音楽面では、オンドマルトノが活用されていることが一番の特徴だ。その他電気的に作られた様々な音響を駆使して、独自の世界を作り出している。水の音なども、本物そっくり。また、これはいわゆるオペラ系統の作品ではなく、むしろラジオ・ドラマの作りに近いものだ。つまり劇場のステージではなく、ラジオ放送局のスタジオに俳優たちやオーケストラ団員が入り、さらに電子楽器などの機材を持ち込んで作るという感じの作品なのである。
この作品は一度だけCD化(EMI)されたが、現在は入手困難なようだ。そう言えば、当時の出演者の中に若き日の岸田今日子さんがいた。ベルタルダの役で出演なさっていたのだが、今日(こんにち)のような凄みまではないものの、「ああ、これは確かに岸田さんだなあ」とうなずかせるだけの存在感があった。あと、「舟歌」を歌っていたのが、友竹正則氏。生前は、TVにもよく出演なさっていた。何となく懐かしい名前だ。全曲の演奏時間は、約44分。1959年芸術祭賞、1960年イタリア賞受賞作品。
3.ヘンツェのバレエ音楽<オンディーヌ>(※この作品のドイツ語の原題はUndineだが、日本盤CDでは「オンディーヌ」という表記で販売されているので、こちらを使用することにした。)
振付家のフレデリック・アシュトンという人が、ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』の舞台上演を観て深く感じ入ったらしい。その彼が、フーケー以来の「ウンディーネの物語」をバレエ化したいと考え、最終的にハンス・ウェルナー・ヘンツェの音楽を得て実現したのが、この作品である。バレエ上演時に主演したのは、マーゴ・フォンテーン。現在、オリヴァー・ナッセン&ロンドン・シンフォニエッタの優れた演奏によるCDが、グラモフォンから出ている。これは三幕構成の作品だが、物語の設定はかなりオリジナリティが高いものである。
まず第1幕は、狩人や客人たちが集まっている城の外。騎士パレモンが登場し、許婚のベアトリーチェに金の魔よけを贈ろうとする。彼女がそれを受け取らずに城へ入った後、海の精オンディーヌが現れて「影の踊り」を披露し、騎士を魅了する。森に去っていくオンディーヌを、パレモンが追う。人間を信じない地中海の王ティレニオは、手下の海の精たちを使って騎士の邪魔をする。しかし、しっかりとオンディーヌを抱きしめる騎士の姿を見て、彼らは手を引く。その後、森の隠者が立ち会って、二人は結ばれる。(約38分)
第2幕は、地中海に面した港。船の上。パレモンが魔よけをオンディーヌにあげようとすると、ベアトリーチェが横取りする。それを見た地中海の王ティレニオは、彼女からその魔よけをもぎ取って、水中へ消えていく。ベアトリーチェが取り乱すと、オンディーヌは海の中からきれいな珊瑚の魔よけを出して、ベアトリーチェに渡そうとする。しかしベアトリーチェは、それをオンディーヌの足元に投げ返す。さらにパレモンがそれを拾って、海に捨ててしまう。怒れる王ティレニオが海に嵐を起こし、船を難破させる。オンディーヌは海の精たちに護られながら、水中に消えていく。(約23分)
第3幕は、城の広間。パレモンはベアトリーチェと結婚する。彼の夢の中に、悲しむオンディーヌが現れる。その後、結婚式の踊りが次々と披露されるが、やがて宮廷からの来賓に化けたティレニオや海の精たちがやって来る。結婚式のためのディヴェルティスマンを披露した後、ティレニオと海の一族は正体を現し、人々を混乱に陥れる。海の精たちに魅入られたパレモンは、今やベアトリーチェよりもオンディーヌを求めている。やがて泣きながら現れたオンディーヌに接吻して、彼は息を引き取る。城の広間は海の水に覆われていき、オンディーヌもその中に消えていく。(約41分)
音楽面について言えば、やはり舞台映像がほしい作品である。特に第1&2幕は、CDで音だけを聴いているのはちょっとツライ。解説書の筋書きを見ることで、とりあえずどういう場面を描いているかは逐一確認出来るし、またそれなりに納得も出来るのだが、この音楽だけでは今一つ物足りない。
ただし、CDの二枚目に収められた第3幕は別である。これは、音だけでもかなり楽しめる。まず、パレモンの夢の中にオンディーヌが出て来る場面。ここでの音楽は、寂しげな弦にハープが加わって実に良い味を出している。さらにトラック11から20にかけて聴かれる、「結婚式でのディヴェルティスマン」。結婚式の客に化けた海の精たちが、代わりばんこに見せる踊りの音楽である。ここではピアノ独奏も加わって、非常にヴィヴィッドな音楽が展開される。(※ナッセンの指揮によるグラモフォン盤では、ピーター・ドナヒューという人がピアノを担当しているが、これは名演と言ってよいだろう。)CD解説書の言葉をそっくり拝借すれば、「ブロードウェイ・ミュージカルのような、どんちゃん騒ぎ」だ。私の感じ方としては、プロコフィエフのピアノとバルトークの打楽器が参加したジャズ・セッションの盛り上がり、といったところだろうか。とにかくこれは、楽しんだ者の勝ちである。
4.ラヴェルのピアノ曲<オンディーヌ>(1908年)
有名なピアノ曲集《夜のガスパール》の第1曲。ドビュッシーよりも少し前に書かれたものだが、フーケー作品ではなく、アロイジウス・ベルトランの遺作詩集に出てくるオンディーヌをもとにしているのだそうだ。
ベルトランが描いたオンディーヌというのは、自分から男をナンパ(?)しにやって来る積極派の妖精である。ある男の部屋に水の妖精がやって来て、青い窓ガラスの外から、「湖底の宮殿で、一緒に暮らしましょうよ」と男を誘う。(※彼女は水界の繁栄のために、人間の男の力が必要らしい。)しかし、「一緒になるなら、人間の女がいいわい」と言って、男は拒否する。すると彼女は泣き出すのだが、やがて甲高い声で笑い出し、窓ガラスの水滴になって消え去る。男としては一度体験してみたいような、みたくないような、不思議な幻想詩の世界だ。
ラヴェルのピアノ曲は、この詩の内容を辿ったものだそうだが、聴いた感じとしてはそんなに妖怪めいた雰囲気ではなく、むしろフーケー作品の中で、騎士と結婚してしとやかになったウンディーネをイメージさせるような優美さを湛えた曲である。かえって上述のドビュッシー作品の方が、このベルトランのオンディーヌに近いように私には感じられてしまう。
―次回以降もウンディーネにまつわるクラシック音楽作品の話だが、当ブログの本領とも言うべきオペラ分野に進む予定である。
「歌劇<沈鐘>(1)」2005年12月27日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/5b044828992d41ee01478b89da5ccff8]
フーケーの『ウンディーネ』に内蔵される第2のモチーフを踏襲した代表的な作品として、ゲルハルト・ハウプトマンの象徴劇『沈鐘(ちんしょう)』(1896年)を挙げることが出来る。これは題名が示す通り、水の中に沈んだ鐘をモチーフにしたドラマである。ここに登場する妖精の娘ラウテンデライン(※アクセントは真ん中の「テ」)もウンディーネの末裔と言ってよい存在だが、この作品自体は、『ウンディーネ』の直接的な後継となっている物ではない。物語のテーマ上の主人公はむしろ、ハインリッヒという名の鐘造り職人の方である。彼は親方と仰がれる立場にあり、名職人の誉れ高い男だ。ウンディーネと結婚する若い騎士と違って、彼はすでに妻帯者であり、二人の子を持つ家庭人でもある。
この『沈鐘』のオペラ化は、一度ラヴェルが試みたもののついに果たせず、後にイタリアの作曲家レスピーギによって実現された。レスピーギの歌劇<沈鐘>(1927年)は、割と最近になってようやく全曲盤CDが発売され、これが世界初録音となるらしい。出演者たちは率直に言って一流とは言いがたいメンバーだが、彼らなりにベストを尽くしており、一応作品の姿を掴む上では支障のないレベルに達している。ハウプトマンの原作は5幕で構成されているが、レスピーギのオペラは、本質的でないエピソードを適宜カットして4幕に統合した台本を使っている。
当ブログでは今回から3回にわたって、この現在唯一と思われる全曲CDをもとに、トラック番号順にオペラのストーリー展開を追ってみたいと思う。以下、左側の数字はCDのトラック番号である。(※原作に比べるとオペラの台本はだいぶスリムなものだが、本質的なところは押さえられているので、その粗筋を追うだけでもかなり原作の姿をうかがい知ることが出来る。)
【参照演奏 : フリーデマン・ライヤー指揮モンペリエ国立管弦楽団、他 2003年10月4日録音 Accord盤】
〔 第1幕 山の中の草地。舞台下手に小屋。上手に井戸。 〕
1.妖精の娘ラウテンデラインが、井戸の縁に座っている。うるさいミツバチを追い払い、井戸の奥に向かって、水の精の男ニッケルマンに呼びかける。(※イタリア語で書かれたこのオペラでは、水の精の男はオンディーノと呼ばれるが、当ブログでは原作通りのニッケルマンを使用する。)
(※弦と木管による開始部の音楽は何だか、ドビュッシーの<ペレアス>っぽい。水辺の風景にはやはり、こういう音が似合うのか。ラウテンデラインはコロラトーラ・ソプラノの声できびきびと歌い、いかにもおきゃんな娘のイメージ。)
2.「ブレケケ ケックス!」という鳴き声とともに、ニッケルマンが井戸の底から現れる。続いて山の牧神も、森から出て来る。この二人をからかって楽しんだ後、ラウテンデラインは走り去る。ニッケルマンと牧神の対話。牧神が、最近山で起こったことを語る。「いまいましい人間どもが、オレらの山の上に教会を立てるんだとよ。そのてっぺんに、あのガンガンうるせえ鐘をしつらえようって、ふもとからエッチラオッチラ運んできやがった。でもよ、オレがその荷車の車輪をちょっとおっぱずしてやったらよ、でかい鐘はゴンゴン下へ転げ落ちて、今はすっかり湖の底ってわけさ。ざまあみろだ」。
(※ひょうきんに上下動する木管のパッセージが牧神のテーマとして使われていて、これがいかにも「パンの笛」といった感じで分かりやすい。声は性格的なテノール。一方のニッケルマンは、バリトン。ただ、このモンペリエ・ライヴを聴いた限りで言えば、この作品でのニッケルマンには、原作に見られるほどの下品な印象はない。ちょっと物足りないかも。牧神の語り場面についた伴奏音楽が、なかなか描写的。特に、落ちた鐘の音が良い。)
3.鐘職人のハインリッヒが、半死半生の状態で山を這い上がってくる。(※このオペラでは、職人の名はエンリーコというイタリア語名になっているが、当ブログでは原作通りのハインリッヒを使用する。)彼は自分が作った鐘と一緒に山から転落したが、その後必死に這い上がって、ラウテンデラインが魔法使いの老婆と住んでいる小屋までたどり着いたのである。ミルクをもらって一息ついたハインリッヒが、ラウテンデラインに向かってつぶやく。「君の声のような響きを、あの鐘に込めてみたかった。でも、出来なかった。私は今、血の涙を流す思いだ」。ラウテンデラインはきょとんとして、「涙って、なあに?」と尋ねるのだった。
(※ハインリッヒの声は、リリコ・スピントのテノール。音楽的な注目点は、このハインリッヒと出会ったラウテンデラインの歌い方の変化。先ほど牧神たちをからかっていた時とは打って変わり、女性的で優しい表情が現れている。)
4.帰ってきた老婆にラウテンデラインは、「この人を助けてやって」と頼む。しかし老婆は、「そんなもん、放っときな」とつれない。その後、「お婆さんに教わった魔法で、私がこの人を治してあげよう」と、ラウテンデラインは魔法陣を描き始める。が、やがて彼を捜しに来た村の床屋、牧師、そして校長の声が響いてくる。彼女は隠れる。
(※老婆の声はアルト。「人間ってのは、いつか死ぬものなんだよ。放っておきな」と言うあたりで効かせる低音のドスが、不気味な感じで良い。また、魔法を始めるラウテンデラインがここで聴かせる歌には神秘的な美しさが漂っており、非常に印象的である。このオペラの大きな聴きどころの一つだ。)
この続きは、次回・・。
「歌劇<沈鐘>(2)」2005年12月31日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/cf6c1854dd762d9fd5814ed8792563e9]
前回からの続き。レスピーギの歌劇<沈鐘>第1幕の後半から、第3幕前半までの部分。以下、左側の数字は前回同様、CDのトラック番号である。ただし第3幕からCDは二枚目に入るので、トラック番号はそこで改めて1から始まることになる。
5.村から来た三人(=牧師、床屋、校長)と、魔法使いの老婆のやり取り。三人の中に牧師が入っているので特にそうなのだが、お互いに不信感をむき出しにした対話をする。やがてハインリッヒを見つけた三人は、担架を作って彼を乗せ、山を下りて行く。
(※バスの声で歌われる牧師は、ドラマの重要人物。原作では割と物腰柔らかい感じの人なのだが、このオペラでは、かなり押しの強い頑強なイメージになっている。<アイーダ>のランフィスみたい。)
6.月明かりの下で、三人のエルフ(=妖精)たちが歌い踊っている。ラウテンデラインが出てきて、その輪に加わる。
7.ニッケルマンとラウテンデラインの対話。ニッケルマンは、ラウテンデラインの目から流れているものに気づき、「それは、涙ってもんだ」と話す。「あたし、遠くへ行ってみたいの」と、ラウテンデラインは人間たちの住む世界へ行くことを告げ、森の中へと去っていく。愕然とするニッケルマンの「ブレケケ ケックス!」という鳴き声で、第1幕が終わる。
(※ここは、しみじみと抒情的な場面である。プッチーニ歌劇の伝統を引き継いだような、素晴らしい音楽が聴かれる。ラウテンデラインだけでなく、ニッケルマンまでが抒情的に歌って応える。私個人的には、このオペラの中で一番好きなシーンである。)
〔 第2幕 ハインリッヒの家。 〕
8.ハインリッヒの妻マグダと、二人の子供たち。「パパの鐘がもうすぐ、鳴るわよ」と、皆で楽しみにしている。彼らはまだ、山の上で起こった出来事を知らない。そこへ牧師たちがやって来て、ハインリッヒが大変な事故に遭い、生命が危険な状態になっていることを告げる。
(※マグダ役は、高音に強いメゾ・ソプラノか、ドラマティック・ソプラノに向いている。物語のラスト近くで分かることなのだが、この奥さんはとてつもなく強い意志の持ち主なのである。ところで、ここで聴かれる子供たちの歌は、日本では「かーすみか、雲か♪」でよく知られたドイツ民謡。初めて聴いたら、あれっ、と思うことうけ合いだ。)
9.瀕死のハインリッヒが、家に運び込まれてくる。死を覚悟した彼は、妻にお詫びの言葉をつぶやく。「誰か、うちの人を助けて」と外へ出て行くマグダ。ハインリッヒが一人になる。
10.そこへラウテンデラインが現れて、魔法の治療を始める。何をしているのかと、訝(いぶか)るハインリッヒ。
(※ラウテンデラインが登場する時の音楽が何とも色彩的で、さすがはレスピーギという感じ。いかにも“妖精の登場”という雰囲気が、よく出ている。)
11.ラウテンデラインとハインリッヒの対話。ここでラウテンデラインは自分の身の上と、今の気持ちを語る。そして短いやり取りの後、彼女はハインリッヒのまぶたに長いキスをする。
(※ここもラウテンデラインの聴かせどころだが、特にその後半部分が聴き物。「あなたが好きよ。お望みなら、あたしがここにいてもいいけど、あなたが一緒に山の上に来てくれたら、もっといいな」というセリフが、抒情的な美しさを持って歌われる。続いて、「そしたら私、あなたの召使になって、いろいろな宝石を・・」と歌い出すところでは伴奏楽器に小さな鐘が効果的に使われ、ドリーブの歌劇<ラクメ>の一場面、あの「鐘の歌」を想起させるものになっている。)
12.ラウテンデラインの魔法が効いて、みるみるうちにハインリッヒの全身に活力がよみがえって来る。彼はすっかり元気を取り戻す。「この奇跡はいったい、何だ?ああ、新しい太陽だ」。再び生きる力と、創作への意欲に燃え立つハインリッヒ。やがて妻マグダが戻って来て、夫の元気な姿を見て大喜びする。夫婦が抱き合ったところで、第2幕が終了。
(※ハインリッヒの力強い復活の歌と妻マグダの喜びの声が交差する場面は、ほとんどワグネリアンの世界。ちょっと笑える、堂々たる幕切れである。)
〔 第3幕 山の上。荒れ果てたガラス小屋。 〕
1.ハインリッヒは村を離れ、山の上でずっと暮らすようになっている。山に棲む小人たちをこき使って仕事に励むのだが、どうしても納得のいく作品が出来ない。小人たちを叱りつけたりして、彼はやたらいらついている。
(※第3幕開始の音楽では、チンカンチンカンと鳴り続ける金床の音が、巧みな情景描写を行なっている。)
2.水の精ニッケルマンと牧神の対話。ハインリッヒがラウテンデラインとよろしくやっているのが、不快な様子。そこへラウテンデラインが登場し、いつものように二人をからかう。やがて、牧師が現れる。彼は、家族を放ったらかしにしてずっと山にこもっているハインリッヒを心配して、山の上まで登って来たのだった。
3.「お前は魔術を使って、ハインリッヒ親方を篭絡した」と、牧師はラウテンデラインをののしる。ラウテンデラインも負けじと言い返す。そこへ、ハインリッヒが登場。自分はすっかり回復して、良い毎日を送っていると牧師に告げる。
4.牧師とハインリッヒの対話。ハインリッヒは、「教会とかキリスト教とか、そんな物のためではなく、自然を賛美するものを作るのだ」と熱っぽく語りだす。牧師は愕然として、「あなたは、おかしくなってしまわれた・・」とつぶやく。そして、どうにもかみ合わないやり取りの後、「覚えておきなさい。いつか、あの湖底の鐘が鳴りますから。あなたのためにね、親方」と言い残して、牧師は去って行く。
(※ここでハインリッヒは、自らの理想を高らかに歌う。レスピーギの音楽も力強く、彼の歌を支える。しかし、それを遮るように牧師の言葉が始まる。上に書いた牧師のセリフは原作の雰囲気を尊重して和訳したが、このオペラでの牧師の歌い方は、もっと威圧的に響くものだ。「いいか親方よ、覚えておくがいい」みたいな訳し方をした方が、このオペラの対訳としてはもっとふさわしいかも知れない。悲劇の運命を語るような弦楽の旋律と、ティンパニの強い連打が、非常に劇的な空気を盛り上げる。次回言及する予定だが、このハインリッヒと牧師のやり取りこそが、ハウプトマンの『沈鐘』に於ける核心的テーマに触れる部分なのである。)
―次回はこの続きから、最後の幕切れまで。
「歌劇<沈鐘>(3)」2006年01月03日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/9cedbe54d30f56155a30c70f08afb8a4]
今回はいよいよ、レスピーギの歌劇<沈鐘>の最後の部分。第3幕の後半から、第4幕終曲まで。以下、いつもの通り、左側の数字はCDのトラック番号である。
(前回は、牧師がハインリッヒに警告を発して山を下りて行くところで区切ったが、原作ではその後いくつかのエピソードが出て来る。その中でも見過ごせないのは、犬の群れが山の上にやって来るという展開である。ハインリッヒは火を使ってそれを追い払うのだが、このあたりはオペラではカットされている。実は、ここで水の精ニッケルマンの下品な性格があらわになる場面が、原作にある。ラウテンデラインがニッケルマンのもとに、「犬の群れがやって来るの。ねえ、彼を助けてあげて」と頼みに来るのだが、その彼女に対して、「オレの力が借りたいなら、お前、着ているものを全部脱いで、素っ裸になってこの井戸の底まで下りてきな。そしたら、ちっとは考えてやるぜ」なんて言うのである。物語の本質とはあまり関係ないということでオペラ台本からは削除されたようだが、このニッケルマンの本性を窺える部分が消えてしまったのは少し残念な気もする。)
5.牧師が去って、二人きりになったハインリッヒとラウテンデライン。愛の会話。ラウテンデラインはハインリッヒに、「あなたこそ、バルドゥル(=北欧神話の光の神)よ」と言って励ます。力強い愛の二重唱が聴かれる場面。しかし・・
6.突然、ハインリッヒの耳に不思議なものが聞こえて来る。ラウテンデラインには、わからない。やがて、ハインリッヒの二人の子供たちが姿を現す。一人は壷を抱えている。ハインリッヒがそれは何かと尋ねると、「この中には、ママの涙がいっぱい入っているんだ」と、子供は言う。さらにハインリッヒが、「ママはどうしている?」と尋ねると、「ママは今、湖の底」と子供は答える。その途端、ハインリッヒの耳の中で鐘が鳴り始める。湖底に沈んだ、あの鐘の音である。いつの間にか、子供たちは消えた。ハインリッヒは我に返ったように決然と、山を下りることにする。止めようとするラウテンデラインを、「消えろ!この呪わしい魔物め」とののしって、彼は去って行く。「ああ、終わりだわ!」というラウテンデラインの悲痛な叫びで、第3幕が終了。
(※ここに出て来るハインリッヒの子供たちは語るのみで、歌わない。親子のやり取りの間、背景に控えめなティンパニの小刻みな連打が続く。その静けさが、逆に緊迫感を醸し出す。やがて、ハインリッヒの耳に鐘の音が聞こえてくると、ティンパニもどんどんクレシェンドし、金管も加わって大きく盛り上がる。巧い展開だ。)
〔 第4幕 最初の第1幕と同じ草地。 真夜中。 〕
7.山に棲む三人の妖精たち。「太陽神はもう、いない」と、井戸端で嘆きの歌を歌う。
8.牧神とニッケルマン。「とうとう小娘が、男に捨てられたぞ。チャンスだぜ」という牧神の言葉にニッケルマンは、「あの小娘がほしけりゃ、てめえで捜せよ」と冷淡に答える。それに続いて彼は、湖底で見た恐ろしい光景のことを語り出す。「湖に飛び込んで死んだ女の手が、湖底の鐘を捜し求めていた。そして、それに触れるかどうかというところまで近づいた途端、あの鐘が鳴り出したのさ。まるで雷みてえにな。その女の顔も見たぜ。髪の毛がまるで後光のように、水の中で広がっていた」。
(※このニッケルマンの談話は、原作を読んでいても一番ゾクっとする部分だ。ハインリッヒを取り戻そうとする妻マグダの愛と執念が、湖の底で奇跡を起こしたのである。当オペラで聴かれるニッケルマンの歌い方も、それまでにはなかった劇的な迫力を持っている。)
9.ハインリッヒがラウテンデラインを求めて、山に登ってくる。魔法使いの老婆が応じる。
(※老婆を演じる歌手にとっては、ここから次のトラック10が一番の聞かせどころだろう。この部分では特に、「越えられない壁ってのがあるんだよ。それを越えるには翼が必要だが、あんたの翼はもう折れちまってるんだ」と歌うところ。アルト歌手ならではの、低音のドスが効果的。)
10.「愛しい人、さようなら、さようなら」と歌うラウテンデラインの声が聞こえてくる。彼女との再会は死を意味すると老婆に聞かされた上でなお、ハインリッヒはラウテンデラインに会いたいと願う。
11.ついにハインリッヒは、ラウテンデラインとの再会を果たす。彼女は、あのニッケルマンの妻になっていた。過去の出来事を一緒に思い出しながら、ハインリッヒとラウテンデラインはしばし語らうが、やがて彼の死がやってくる。「太陽だ!太陽だ!いとも高きところで、太陽の鐘が鳴る。でも、夜は長い・・」そう言ってハインリッヒが静かに息を引き取ったところで、全曲の終了。
(※ラウテンデラインが、井戸の中から姿を現す場面。ハープのカデンツァが、幾分不気味で神秘的な雰囲気を作り出す。ウンディーネ同様、好きだった男と再会を果たすラウテンデラインもやはり、青ざめて悲しげな姿をして出て来る。続いて二人のやり取りが、弦を中心としたしみじみと美しい伴奏に支えられて展開。最後に二人が、「太陽だ!」と唱和していったん大きく盛り上がった後、このオペラは静かな終曲を迎える。)
この作品を語り始めた最初の方で書いたが、ハウプトマンの『沈鐘』という作品は、『ウンディーネ』的な意味での水の精の物語ではない。この劇がテーマとしているところを至極単純に言ってしまえば、「芸術家の苦悩」ということになるだろう。もう少し具体的に言うなら、自然の中に芸術の理想を求める心(あるいは、芸術至上主義みたいなもの)と、俗世間で求められるモラルや義務との相克である。『沈鐘』はそのあたりを象徴的に描いたもの、ということになろうかと思う。作家ハウプトマン自身の現実世界での状況も、妻と愛人の間で揺れ動いていた部分があったらしいので、そのあたりも投影されているのではないかと言われている。(※そうであるとすれば、作家の愛人を象徴しているのが妖精ラウテンデライン、ということになりそうだ。)しかし、当ブログでお読みいただいた通り、その辿った道筋とドラマの最後に果たす役割に於いて、ラウテンデラインもまたウンディーネの末裔なのである。(※もっとも、このラスト・シーンに至る状況説明は、オペラの台本だけではいささか言葉足らずの感も否めない。物語自体を堪能するには、やはり原作を読むに如くはない。)
―さて次回は、《ウンディーネ・シリーズ》の掉尾(ちょうび)を飾る名作オペラに話を進めたい。ウンディーネの末裔にして人魚姫でもあり、なお且つ、この『沈鐘』の要素をも踏襲しているという、そんなオペラのヒロインが存在するのである。
◆レスピーギ:歌劇『沈鐘』/ドナート・レンツェッティ指揮カリアリ歌劇場(2016年)[日本語字幕付Blu-ray]【Amazon】

「歌劇<ルサルカ>(1)」2006年01月08日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/84f29c10bcded211f8367fc9ccb1f4ee]
ドヴォルザークの代表的歌劇<ルサルカ>。このオペラの主人公ルサルカも、ウンディーネの末裔である。それも、当シリーズの掉尾を飾るに相応しい究極の(?)ヒロインである。このオペラは、前回までに語ってきたロルツィングの<ウンディーネ>やレスピーギの<沈鐘>と比べたら遥かに有名な作品なので、ここではストーリーを細かく追う形はとらずに、その粗筋と音楽的な聴き所だけをチェックしていく展開にしたいと思う。今回はその前半部分に当たる第1幕と、続く第2幕の前半までを扱う。
第1幕 湖のほとりの草地。
まず、4分程度の短い序曲。水の精の男を表す動機に始まり、フルートによるルサルカの動機など、重要な音楽的モチーフが提示される。
(※序曲の冒頭で、チェロの旋律に控えめなティンパニが添えられる音型が聞かれるが、これが水の精の男を表す動機とされている。この「タタタタ、ターンタ」というリズムは、ハウプトマンの『沈鐘』に出て来る水の精ニッケルマンの鳴き声「ブレケケ、ケックス」を音符化したものだという専門家の指摘がある。また場面設定も、『沈鐘』の舞台風景に近い物になっているらしい。なお、このドヴォルザーク・オペラに登場する水の精の男は、本によってはドイツ語流にワッサーマンという名前で紹介されることもある。当ブログでも便宜上、今後はその呼称を使おうと思う。)
序曲に続いて、踊りながら笑いさざめく3人の木の精たちの合唱。彼女たちはワッサーマンを取り囲み、からかって楽しむ。
(※伊達男気取りの年老いた男を若い娘たちが取り囲んで笑うという開幕風景は、ワグナーの<ラインの黄金>を思わせるが、このオペラに登場する水の精ワッサーマンは、アルベリヒなどとは全く違って善良そのものの男である。ところで、この開幕早々に聴かれる「木の精たちの合唱」では、いきなりドヴォルザーク節全開の素晴らしいオーケストラ伴奏が楽しめる。ワッサーマンの動機を土台にした強烈な連打音。ゴキゲンな土俗的高揚感が最高だ。)
ハープのアルペッジョに乗って登場したルサルカと、ワッサーマンの対話。水浴に来た人間の王子を見て、恋をしてしまったというルサルカ。「人間って、魂を持っているんですってね。私も人間になりたいわ」。驚くワッサーマン。続いて、有名なルサルカのアリアが聴かれる。
(※この対話の中で聞かれるルサルカのセリフから、彼女がウンディーネから人魚姫に引き継がれたモチーフをそのまま踏襲していることが分かる。また、彼女が登場して間もなく歌うアリア「白銀(しろがね)の月よ」は、美しい旋律の多いドヴォルザークの声楽曲の中でも屈指の名曲である。この歌の最後で、ルサルカの願いもむなしく月が雲に覆われてしまうのは、何か暗い運命を予告しているかのようだ。)
ルサルカは決意して、魔法使いの老婆イェシババのところへ行く。ここで老婆は、次のようなことをルサルカに言う。「魔法の薬は作ってあげるけど、かわりにその妖精の衣をいただくよ。それにあんた、人間の世界に行ったら、愛の証(あかし)を手にするまで声が出なくなる。そしてもし、その愛を得られなかったら、あんたは水の世界に引き戻されて、深い淵で永遠に呪われ続けることになるんだ。その上、あんたのいい人も道連れになる。それでもいいのかい」。
(※「人間になったら、声が出なくなる」というのは、『人魚姫』のプロットそのものである。そして「愛を裏切られたら、自分自身が死の使いとして相手の男を死なせねばならない」という設定は、ウンディーネからラウテンデラインに引き継がれたモチーフである。)
イェシババが、いかにもおとぎ話に出て来そうな呪文の言葉を歌いながら、魔法の薬を作る。「かわいそうなルサルカ」と嘆くワッサーマンの声が響いてくる。やがて、牝鹿を狩で追ってきた王子が登場。人間になったルサルカと出会い、惹かれる。「ねえ、一人足りないわよ」とささやき合う水の精たちの声を耳にしてルサルカは瞬時ためらうが、決意したとおり、王子に手を差し伸べて一緒に城へ向かう。
(※終曲部分は、力強い音楽。しかし、後々にまた確認されることなのだが、このオペラに登場する王子の歌には、あまり魅力がない。)
第2幕 王子の城の庭
森番と皿洗い小僧の対話。「王子様が森で出会った怪しい娘と、結婚するらしいよ」と話している。二人はルサルカを気味悪い存在と見ており、嫌悪感をあらわにしている。そこへ、王子とルサルカが現れる。王子は、会って以来全く物を言わない花嫁に対して苛立つ思いを隠さない。外国の王女が続いて登場。彼女は、「私が座りたいところに、他の娘がいるのよねぇ」と歌い始め、やがてルサルカを悪しざまに見下げた態度を取る。さらに王子までもが、王女の側についてしまう。いたたまれなくなったルサルカは、一人で走り去る。やがて城の広間では、婚礼を祝う祝典の音楽が鳴り始める。
(※この部分では、王子がルサルカへの不満を吐露するつまらない歌よりも、外国の王女の迫力ある存在感が目を引く。そして音楽的には、婚礼の祝典音楽が聴き物だ。華々しいファンファーレに導かれた、いかにも晴れやかな曲想の舞曲が流れる。これは本当にゴキゲンな音楽で、聴いていると心がウキウキしてくる。)
第2幕の後半から最後の第3幕については、次回・・。
「歌劇<ルサルカ>(2)」2006年01月14日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/6c1555cf85eee67006992878776ac0d9]
前回からの続きで、今回はドヴォルザークの歌劇<ルサルカ>の後半部分。第2幕後半から、第3幕終曲まで。
第2幕(後半) 王子の城~つづき
外国の王女と、彼女の味方につく王子によって悲しみのどん底に突き落とされたルサルカは、外へ飛び出す。するとそこには、懐かしい水の精の男ワッサーマンがいた。彼と出会ったルサルカは突然声を取り戻し、悲しい気持ちを歌い始める。
(※ルサルカのつらい状況を見ながら歌うワッサーマンの悲しげなアリアは、このオペラの中でも大きな聴きどころの一つである。「かわいそうなルサルカ。人間界に彼女の幸福はなく、水の世界に戻された後は、死をもたらす呪いの存在になり果てる。かわいそうなルサルカ」。中間部で極めて印象的なメロディが流れるこのアリアは、プロフォンドな声を持つバス歌手にとっては非常に歌いがいのある曲だろう。このワッサーマンのアリアと、婚礼を祝う合唱が交錯する展開は、喜びと悲しみのコントラストが鮮烈に浮かび出して、劇的な効果に富む。)
(※ここでルサルカが絶望的な気持ちを訴える歌は、何かせき立てられる様なテンポで歌われる。「彼の心は、他の女性のもの。私には、彼女のような情熱がない。冷たい水から生まれたから。王子には見捨てられ、水の世界からは呪われて、私は虚しいこだま。人の妻になれず、水の精にも戻れない。死ぬことも出来ず、生きることも出来ない・・」。)
そこへ、王子と外国の王女が登場。ルサルカは王子の腕に飛び込むが、ゾッとした王子は彼女を突き飛ばす。ワッサーマンが怒りに満ちた声で、間もなく王子に訪れる死の宿命を予告する。そして、ルサルカを伴って水の中に消えていく。恐ろしくなった王子は、「私を助けておくれ」と外国の王女にすがりつく。しかし彼女は、「あなたは、ご自分で選んだお嫁さんのところへ行きなさいよ」と、彼に肘鉄を食わせて去っていく。
(※この場面は笑える。何が笑えるかと言えば、この王子の情けなさである。オペラ・ブッファのキャラでもないのに、こんな情けない王子もちょっと珍しい。彼につけられた音楽に魅力がないのは、どうも作曲家に嫌われたからではないかという気もしてくる。一方、外国の王女が漂わせる雰囲気の、何とまあ堂々としていること!ルサルカが基本的にリリコ・スピントのソプラノであるのに対して、この王女はドラマティック・ソプラノ、またはメゾ・ソプラノの声が合っている。)
第3幕 再び、湖のほとり
狐火になって、ゆらゆらと漂っているルサルカ。かつての美しい金髪も、すっかり灰色。すべてに背を向けられた悲しみを歌う。そこへ、魔女イェシババが登場。「あんたが救われる方法が、たった一つだけある。このナイフで王子を刺し殺すんだよ。そして王子の暖かい血をすすれば、あんたは水の精に戻れるんだ」。しかしルサルカは、そんな事は出来ないと答える。「じゃあ、好きにしな」と魔女は去っていく。ルサルカは、ナイフを湖に捨てる。やがて、水の精たちの歌声が聞こえてくるが、その内容はルサルカへの絶縁の言葉であった。
(※「ナイフで王子を殺して、その血で・・」と来れば、これはまさに『人魚姫』のプロットである。ここで聴かれる水の精たちの合唱は美しいものだが、やがて、「お前は、あたしたちの踊りに二度と入ってくるんじゃない。泥沼の上で、人魂どもといつまでも揺らめいているがいい」と、ルサルカに対して過酷な内容を歌い始めるのである。)
森番と皿洗いの小僧が、魔女イェシババのもとにやってくる。「王子の重い病は、逃げ去った不気味な花嫁の呪いだろうから、助ける方法を教わってこい」と人に言われて、恐る恐るここへ頼みに来たのであった。ルサルカのことを徹底的に悪く言う小僧の言葉に激怒したワッサーマンが突然出現し、「どっちのせいか、分かっておるのか」と一喝する。森番と小僧の二人は死ぬほど驚いて、「ギャアー、河童のお化けー」とわめきながら逃げ去って行く。その後、第1幕の冒頭のように、木の精たちがワッサーマンを囲んで踊り始めるのだが、彼の方はもうそんな気分ではない。
王子が登場。「私の白い牝鹿よ。・・戻ってきておくれ」と、ルサルカへの仕打ちを後悔している気持ちを歌う。そこへルサルカが現れ、王子に「私はもう、あなたに死をもたらすだけの存在よ」と告げる。しかし王子は、「それでいい。私にキスしておくれ。私にやすらぎを与えておくれ」とルサルカに告げ、彼女の接吻を受ける。王子は死ぬ。「人間の魂に、神の祝福を」と歌いながら、ルサルカも静かに湖底に消えていく。(終)
―以上のような訳で、ドヴォルザークの歌劇<ルサルカ>は、主人公がウンディーネの末裔であると同時に、作品としては『人魚姫』のプロットも引き継ぎ、さらに『沈鐘』の影響も色濃く反映しているという、究極の(?)ウンディーネ・オペラなのであった。さて次回は、《ウンディーネ・シリーズ》の締めくくりとして、これまでにご紹介してきた作品の整理と、一回ごとの枠の関係で割愛してきた話の補足をしておきたいと思う。
(PS) ドヴォルザークの交響詩<水の精>
晩年のドヴォルザークが作曲したいくつかの交響詩の中に、<水の精>というのがある。しかし、これは『ウンディーネ』や<ルサルカ>とは全く別系統の作品である。エルベンの詩集『花束』に題材をとったもので、以下のような不気味な筋書きを持つ。音楽はしかし、そんなに陰惨なものではない。ご参考までに・・・。
〔 水の精の男と結婚した人間の娘が、里心を出して実家の母のもとにいったん帰る。しかし、母が止めたこともあって、約束した期日になっても彼女は夫のところへ戻らなかった。怒れる水の精が彼女の家の戸口までやって来て、二人の間に産まれていた赤ん坊の惨殺死体を置いて去って行く。 〕
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「《ウンディーネ》~まとめと補足~」2006年01月19日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/410a2e947da69082efdc3721e7b0fb1f]
今回は、《ウンディーネ・シリーズ》としてこれまで語ってきた作品の整理と、枠の関係で前回までに書けなかった内容の補足である。まず、これまでにご紹介してきた作品群を系統別に整理しておきたい。フーケー作品に見られる二大モチーフを出発点にして、それぞれから出来上がっている系譜を一覧にしてみると、おおよそ以下の通りになろうかと思う。
{ フーケーの『ウンディーネ』に見られる2つの重要モチーフと、それぞれの系譜 }
第1のモチーフ : 精霊(エレメント)は、人間との愛の絆によって魂を得ることが出来る。
第2のモチーフ : 精霊界にある貞節の掟を破る人間は、死の報復を受ける。●第1&2の両方のモチーフを踏襲した作品
=ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』
●第1のモチーフを踏襲した作品
=アンデルセンの『人魚姫』→ツェムリンスキーの交響詩<人魚姫>
●第2のモチーフを踏襲した作品
=ハウプトマンの象徴劇『沈鐘』→レスピーギの歌劇<沈鐘>
●第2のモチーフに加えて、『人魚姫』と『沈鐘』の要素も包含する作品
→ドヴォルザークの歌劇<ルサルカ>
●フーケー作品を直接土台にした音楽作品
→ホフマンの歌劇<ウンディーネ>
→ロルツィングの歌劇<ウンディーネ>
→三善晃の音楽詩劇<オンディーヌ>
→ドビュッシーのピアノ曲<オンディーヌ>(《前奏曲集・第2巻》~第8曲)
→ヘンツェのバレエ音楽<オンディーヌ>●A・ベルトランの詩をもとにした音楽作品
→ラヴェルのピアノ曲<オンディ-ヌ>(《夜のガスパール》~第1曲)
※チャイコフスキーが書いた2作目の歌劇も、フーケー原作の<ウンディーネ>だったと伝えられるが、それは上演には至らず、その断片が後にあちこちで利用されることになったらしい。
※プロコフィエフも、13~16歳にかけてフーケー原作による『ウンディーネ』のオペラ・スコアを書いていたらしいのだが、その上演記録や録音等については不明。
※ダルゴムイシスキーの歌劇<ルサルカ>については、最近フェドセーエフの指揮による全曲CDが出ていることを確認したのだが、内容については不詳。
―当然のことながら、上記の作品群以外にも、<ウンディーネ>関連の音楽作品がまだ存在する可能性は十分にある。とにかく『ウンディーネ』は、数多くの作曲家に創作の霊感を与えた物なのである。
続いて、「フーケーが『ウンディーネ』を創作するに当たって、きっと参考にしたであろう」と専門家の間で考えられている伝説・伝承について補足しておきたい。
{ フーケーが『ウンディーネ』の題材にしたであろうと考えられている伝説・伝承 }
1.メルジーネ伝説
当ブログでもかつてトピックにして軽く触れたことがあるが、下半身がヘビという謎の女性を巡るヨーロッパの伝説。彼女に提示された「土曜日に私を見ちゃイヤよ」というタブーを破ったことで、その男の家系が滅びる。このメルジーネを人魚の一種として語る伝承もあり、ヨーロッパの各地にいくつかのヴァリエーションが散在する。ちなみに、メンデルスゾーンが序曲<美しきメルジーネ>を書くきっかけとなったクロイツァーのオペラ台本には、人魚姫的な要素が包含されていたようである。
メルジーネについてのまとまった物語としては、14世紀末にジャン・ダラスなる人物が書いたものが現今よく知られている。その話によれば、彼女がヘビ女になった経緯は以下のようになるらしい。
〔 メリュジーヌ(←フランス語読み)の父は、アルバニア国王だった。狩の最中、彼は森の中でプレジーヌと名乗る美しい女と出会い、結婚した。出産には立ち会わないという約束を王が破ったので、プレジーヌは三人の娘を連れて姿を消す。後に父王の約束破りを知った娘たちは、王を山に閉じ込めたが、まだ彼を愛していたプレジーヌは怒って、娘たちに呪いをかけた。その結果メリュジーヌは、普通に男性と結婚できれば人間となって最後の審判で救われるが、土曜日に姿を見られたらヘビ女に戻るという定めになった。その後メリュジーヌは結婚まではこぎつけたものの、結局正体を夫に見られて姿を消すことになった訳である。 〕
2.シュタウフェンベルク伝説
ペーター・フォン・シュタウフェンベルクという騎士が、森の中で謎の美女に出会う。「あなたがこれまでうまく成功して来られたのは、私の加護のおかげなのよ」というような事を、女は騎士に言う。さらに彼女は、いつでも騎士の望むままに愛を与えてやろうと告げる。そのかわり、決して誰とも結婚してはいけないという条件も出す。そして契りの指輪を受け取った騎士は、この女との奇妙な愛情生活に入るのだが、やがて周りの人たちが騎士に結婚を勧めるようになる。騎士は、自分とずっと関わっている謎の女の事を話す。僧侶たちは、「それは魔物だ。手を切りなさい」と進言する。結局騎士は、国王の姪に当たる美しい姫と結婚するのだが、女の予告通り、結婚式の三日後に彼は死んでしまう。
これで、当ブログの《ウンディーネ・シリーズ》は終了である。シリーズの最初に、「四大元素の妖精たちの中でも、ウンディーネには特別な存在感がある」と書いたことの意味を、この何回かで一応、それなりに語れたのではないかと思う。
【 参考文献 】
『水の音楽』(青柳いづみこ・著)みすず書房
(PS)
★カール・ライネッケの<フルート・ソナタ>Op167に、「ウンディーネ」の標題あり。1885年頃の作とされる。
★ジョージ・テンプルトン・ストロングの交響詩<オンディーヌ>については、当ブログ2007年1月5日の記事に解説あり。
「歌劇<皇帝の花嫁>(1)」2006年10月17日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/62dbf6e6ebaed909ad3fd4eea0b0f055]
交響組曲<シェヘラザード>や<スペイン奇想曲>、あるいは序曲<ロシアの復活祭>といったオーケストラ作品ばかりが有名なこともあって、管弦楽曲の大家というイメージが強いリムスキー=コルサコフだが、この人はオペラ作家としての業績こそ重要である。彼がその生涯に書き上げた歌劇は全15作にも及ぶし、その他に、ムソルグスキーやボロディンらが完成出来なかったオペラを補筆して仕上げた編曲者としての成果にも非常に大きなものがある。
今回のシリーズでまず採りあげるのは、私が全曲を語れる彼のオペラ作品の中でも最も衝撃的な、<皇帝の花嫁>(1899年)である。これは、R=コルサコフが書いた9作目のオペラで、皇帝イワン4世の第3夫人に選ばれた直後突然病死してしまったという実在の女性をモデルにしたものだ。私がこのオペラに触れたのは1964年に制作されたという古い映画版ソフトで、映像では専門の俳優さんたちが演じ、音声にはエフゲニ・スヴェトラーノフが指揮したボリショイ劇場での演奏が使われているというものであった。映画作品としての時間制限があったからと考えられるが、このソフトではいくつかの場面がカットされている。その上モノクロ映像・モノラル音声というつらい条件であったにもかかわらず、感銘度はすこぶる高いものだった。以下、この映画版ソフトを鑑賞した時のメモと作品解説の本を参照しながら、名作歌劇の全曲の内容を見ていきたいと思う。
〔 第1幕 〕 宴会
皇帝の親衛隊員グリゴーリ・グリャズノイ(Bar)が住んでいる屋敷の広い客間。グリャズノイが一人、苦悩を歌う。彼はノヴゴロド商人ソバーキン(B)の娘マルファ(S)を好きになったが、彼女にはすでに貴族のイワン・ルイコフ(T)という相思相愛の許婚がいた。ソバーキンにやんわりと求愛を断られたグリャズノイは、「かつては腕ずくで女でも何でも略奪した俺だが、この失恋でまるで駄目な男になってしまった」と嘆く。しかしその後、何とかマルファを自分のものにしたいと心の中で良からぬ策略を巡らす。
そこへ彼の客人たちが大勢入ってきて、宴会が始まる。そのメンバーの中には彼の悪友である親衛隊員マリュータ(B)、マルファの許婚ルイコフ、そして皇帝の侍医を務めるボメーリイ(T)らが混じっている。
(※この宴会の場面は、映画版ではかなりの部分がカットされているようだ。親衛隊員たちの民謡風フゲッタ、あるいは、明るく礼儀正しいイワン・ルイコフが回りから乞われて歌い出すアリオーソといったようなナンバーがもともとはあるらしい。楽曲解説に「外国での見聞を語る美しいアリオーソ」と紹介されているルイコフの歌が聴けないのは、ちょっと残念。)
やがて宴たけなわとなり、皇帝賛歌「栄光あれ」が合唱で力強く歌われる。
(※「スラーヴァ!スラーヴァ」と盛り上がるこの皇帝賛歌は、ロシア・オペラのファンなら、「おおっ、これが出たか」と思わずニンマリすること間違いなしの有名曲である。例えばムソルグスキーの<ボリス・ゴドゥノフ>やボロディンの<イーゴリ公>でもすっかりお馴染みだし、ちょっとマニアックなところでは、チャイコフスキーの<マゼッパ>第3幕の冒頭シーンでも聴かれるテーマだ。)
その宴会の席に、リュバーシャ(Ms)が姿を現す。彼女は、マリュータとその仲間の親衛隊員たちによって遠くの町から略奪されてきた女性である。町の人たちはマリュータらによって虐殺され、彼女自身も、今はグリャズノイの愛人として生きている。ここでマリュータに命じられた彼女が無伴奏で歌う民謡風の歌曲は美しいものだが、旋律も歌詞内容も痛ましい悲しみに満ちている。「お母さん、私のために婚礼の支度をしてください。お母さんの決めた人と結婚します。もう逆らいません。愛する人とは別れました・・・」。
宴会が終わって、客人たちは帰途につく。しかしグリャズノイは医師ボメーリイを呼び止め、相談を持ちかける。「女がある男を好きになるような媚薬、惚れ薬みたいなものをお前は作れるか」。ボメーリイは、出来ると答える。「形状は粉末になる。酒盃に混ぜて女に飲ませるんだ。ただし、男本人がそれをやらねば効果は出ない」。二人のやり取りを立ち聞きしていたリュバーシャは、「彼に好きな女が新しく出来たんだわ。私は捨てられる」と絶望する。
ボメーリイが去った後、リュバーシャとグリャズノイの口論が始まる。「私は娘としての恥じらいも忘れ、家族のことも故郷のことも、何もかも忘れて、すべてをあなたに捧げたのよ。それなのに・・」。そんな彼女に冷たく応じて、グリャズノイは出かけて行く。朝の礼拝の鐘が鳴り響く。リュバーシャは、「その女を必ず見つけ出して、彼から引き離してやる」と決意する。
(※皇帝の侍医という設定で登場するボメーリイだが、実際の役どころは、“悪魔的な薬剤師”といった感じである。声がまた性格的なテノールで、何とも怪しげで陰気な雰囲気が漂う素敵な男だ。w )
〔 第2幕 〕 惚れ薬
映画版では第1場はまるごとカットされているが、ここでは悲劇のヒロインであるマルファの家と、医師ボメーリイの家がすぐ向かいの近所であることが舞台上で示されるようだ。夕暮れ時に、修道院での勤めを終えた人々が帰ってくるところ。そこに親衛隊員たちが現れて出陣の誓いを歌い、人々の間に不安が広がるという展開らしい。
映画は、次の第2場から始まる。修道院から出てきたマルファが親友のドゥニャーシャ(Ms)に、婚約者イワン・ルイコフとのなれそめを歌って聞かせる。「昔、彼とはお隣同士だったの。今でも思い出すのは、あの緑溢れる大きなお庭。・・・私、彼に花輪を編んであげたのよ。・・・誰もが私たちを、お似合いの二人って言ってくれたわ」。
(※村の賑やかな風景を描く第2場冒頭の音楽には序曲<ロシアの復活祭>で聴かれるものとよく似たパッセージが現れ、晴れやかなムードが演出される。いかにも、R=コルサコフ節だ。また、ここで歌われるマルファの幸福感溢れるアリアは、実に美しいものである。)
それから二人は、並んで川べりを歩き出す。そこへ伴を連れて馬に乗ってきた不気味な男が通りかかり、マルファたちをしばらくじっと見つめてから去って行く。マルファもドゥニャーシャも、この男の異様な雰囲気とその恐ろしい目つきに強い不安を感じる。
(※この場面では、オーケストラが例の皇帝賛歌を奏でるのですぐに察せられるのだが、マルファをじっと見つめたこの男こそ、時の皇帝イワン4世、つまりイワン雷帝である。このオペラの中では声を出さない役だが、映画版ではさすがにそれらしい風貌の役者さんを起用している。目つきが怖い。)
雷帝が去った後、マルファの父ソバーキンと婚約者イワン・ルイコフが舟に乗ってやって来る。マルファとドゥニャーシャも川岸からその舟に乗り、揃って皆で家に向かう。船頭がゆっくりと舟を漕ぐのに合わせて、やがて4人は幸福な重唱を始める。
(※舞台上演と違って、この第2幕は映画ならではのロケーション撮影が大きな効果を生み出している。冒頭の人込み風景も雰囲気満点だし、馬の上からマルファをじっと見つめる雷帝の恐ろしい顔もくっきりと映し出される。また、川を舟で下る4人による楽しげな四重唱も、川べりのおだやかな自然風景と溶け合って何ともいえない幸福感を醸し出す。なお、R=コルサコフが書いたこの四重唱には、先達グリンカの作品に聞かれたようなイタリア臭さみたいなものはない。)
―さて、幸福感に満ちた明るいアンサンブルを聴かせる4人だが、そのうちのドゥニャーシャはともかく、他の3人にはこの後、世にも過酷な運命が待ち受けているのだった。この続きから最後の幕切れまでの展開については、次回・・。
「歌劇<皇帝の花嫁>(2)」2006年10月22日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/4455da77878bf5f1f210879aa2cdbdd6]
前回に続いて、R=コルサコフの歌劇<皇帝の花嫁>の第2回。第2幕後半から、最後の幕切れまでの展開。
〔 第2幕 〕 ~続き
マルファとルイコフ、ソバーキンとドゥニャーシャの4人が幸せそうに舟で家路につく一方、リュバーシャも川沿いの道を早歩きで進んでいた。川原の草をかき分け、かき分け、ひたすら進んでいた。恋敵の家を見つけ、その女がどんな容姿なのかを自分の目で確かめるためである。そしてついにマルファの姿を目にしたリュバーシャは、その美しさにショックを受ける。
それから彼女は医師ボメーリイの家を訪れ、薬を注文したいと申し出る。「酒盃に混ぜて飲ませる毒薬を作ってほしいの。でも、飲んだ人をすぐに殺すような毒じゃない。その人の美しさを衰えさせていく薬よ。少しずつ髪の毛が抜けていき、目がうつろになり、胸がしぼんでいく・・そういう薬、作れる?」。ボメーリイは、「出来るが、値段は高くつく」と答える。「ばれたら、俺が罰せられるんだからな」。そして、かつての宴会の席でリュバーシャを見そめていた彼は、薬を作る代償として彼女の愛を求める。「何様のつもりよ」と最初は拒否したリュバーシャだったが、近くの家から漏れ聞こえてくるマルファたちの楽しげな声を耳にして、ついにその決意を実行に移す。
(※この劇的な場面で、リュバーシャは短いアリアを歌う。「グリゴーリ、あの人はあなたを愛してはいないわ」。悪役という設定にはなっているが、ここで聴かれる苦悩のアリアからも察せられる通り、R=コルサコフはリュバーシャに深い同情を示していたようだ。実際彼女もまた、薄幸の人生を生きねばならない可哀想な女性であったのだ。)
(※医師ボメーリイに体を預ける直前につぶやくリュバーシャのセリフは、恐ろしくも哀しい。「きれいな人、悪く思わないでね。あなたの美しさは、私が買ったわ。高い代償を払ってね。高い代償・・・私の操」。この一連の展開の後、酔った親衛隊員たちが勇ましく歌いながら行進する映像を背景にして、彼女がグリャズノイの屋敷でこっそりと薬の袋を入れ替える場面が映し出される。)
〔 第3幕 〕 介添人
第3幕も映画版ではかなりの短縮と編集が施されているが、話の本筋はしっかりと押さえられている。「スラーヴァ(=栄光あれ)」の皇帝賛歌でこの第3幕が始まると、映画ではイワン雷帝が一列に並べられた花嫁候補たちを眺めて歩く場面が短く紹介される。それに続く舞台は、ソバーキンの家。そこにいるのはソバーキンとグリャズノイ、そしてルイコフの3人である。ルイコフは早くマルファとの結婚式を挙げたいと願うが、ソバーキンは、皇帝のお妃候補の12人に自分の娘マルファも含まれていることを心配している。グリャズノイは例の媚薬をマルファに飲ませるために、婚礼の時には自分が介添人をやりたいと申し出る。
(※ここでも映画版は、ルイコフのアリアをカットしているようだ。楽曲解説書によると、「皇帝はドゥニャーシャを気に入ったらしい」という話を聞いて、元気を取り戻した彼が喜びのアリアを歌い出す場面があるらしいのだ。しかし、この映画にそのシーンはない。どうもこの映画版、収録時間の都合があるとはいえ、清廉の人イワン・ルイコフをやたら冷遇している。確かに、彼の歌がカットされても話の流れに影響はないが・・。)
グリャズノイは祝杯を準備しながら、マルファが飲む方の杯にこっそりと薬を混ぜる。やがてマルファやドゥニャーシャたちの一行が帰ってきて、結婚祝いの席となる。何も知らずに、グリャズノイに手渡された酒盃を飲むマルファ。ルイコフとマルファが婚礼の喜びをかみしめていると、突然皇帝の使者として親衛隊員マリュータが馬でやって来る。「ソバーキンの娘マルファが、皇帝の花嫁に選ばれた」。
〔 第4幕 〕 花嫁
皇帝の宮殿。皇妃となったマルファは、以来ずっと体の様子がおかしくなっている。ソバーキンたちが、つらそうに彼女の容態を見ている。そこへグリャズノイがやって来て、マルファに信じられないような恐ろしい報告をする。「皇妃さまに毒を盛ったという男が、白状しました。その男の名はイワン・ルイコフです。皇帝はルイコフの処刑を命じました。そしてその命に従って、私が彼を殺しました」。マルファは激しい衝撃を受け、失神する。
その後しばらくして目を覚ました彼女は、完全に正気をなくしていた。目の前にいるグリャズノイを大好きなイワン・ルイコフと思い込んで、マルファはうれしそうに語りかける。「ねえ、イワン。私ね、悪い夢を見ていたの。あなたが処刑されたんですって。でも、生きていたのね。よかった」。グリャズノイは、「こんな風になるはずはない。ボメーリイめ、でたらめな薬を作りやがったな」と怒るが、狂ったマルファの様子を見ているうちに自分の行為が恐ろしくなってくる。そしてついに彼は、それまで自分がしてきたことをそこに居合わせた者全員の前で告白する。「俺はマルファに恋焦がれ、何とか自分のものにしたいと思った。だから医者に媚薬を作らせて、それを飲ませたんだ。それが、こんなことになるなんて・・」。
(※目を覚ましたマルファが痛々しくも美しい歌を歌い始めるところから、俗に「マルファのシェーナとアリア」と呼ばれる有名な狂乱の場となる。映画版ではまさに、映画ならではの映像演出が効果を発揮している。狂ってしまったマルファが微笑みながら宮殿の扉を一つ開けると、きらきらと光を反射する美しい水面が広がるのだ。そして彼女が幸せそうな表情でその水を手に掬う場面は、まことに哀切を極める。「ねえ、イワン、青空がいっぱいに広がって、天幕のようね。・・・空高くに雲の冠。あんな冠を私たちも被りたいわ。それは、明日ね」。)
「インチキな薬を作りやがって」とグリャズノイがボメーリイに襲いかかろうとしたところへ、リュバーシャが現れる。「私をお忘れのようね。マルファに毒を盛ったのは、この私よ!ねえグリゴーリ、あなたが注文した媚薬って高かったでしょうね。私が作ってもらった薬は安かったわ。でも、その安物の薬には特別な効き目があってね、飲んだ人がだんだんと衰えていくのよ。それをあなたの薬と入れ替えておいたの!・・・さあ、早く刺しなさいよ。私を殺しなさいったら」。
逆上したグリャズノイはリュバーシャのもとへ駆け寄るや、彼女の胸に短剣を突き刺す。「ありがとう。ひと思いにやってくれて・・」と力なくつぶやき、リュバーシャは息絶える。逮捕されたグリャズノイは、うつろな目をしたマルファに向かって激しい勢いで謝罪する。「けがれなき不幸な人よ、許してくれ。すべて、この俺のせいだ。俺はイワン雷帝に申し出る。俺を処刑してくれと。それも、地獄へ行っても見られないような残忍な方法でやってくれと」。グリャズノイが引き立てられて去った後、マルファは虚空をぼんやりと見つめながら、「愛しいイワン、また明日も来てね」とつぶやく。人々の苦悶の声が宮殿内に響くところで、全曲の終了。
―次回も、R=コルサコフのオペラ。
◆リムスキー=コルサコフ:歌劇『皇帝の花嫁』/ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン州立歌劇場(2013年)[Blu-ray]【Amazon】

「歌劇<サトコ>(1)」2006年10月27日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/869ae7bbc25a166bec573f120d0afe2e]
今回と次回は、R=コルサコフの歌劇<サトコ>(1898年)についてのお話。前回まで語った<皇帝の花嫁>とは趣ががらりと変わり、こちらはおとぎ話系の娯楽作品である。この作品には、「7場からなるオペラ・ブィリーナ」という肩書きが付いているのだが、そのブィリーナという言葉については、オペラの話が済んだ後に独立した記事で改めて語ることにしたいと思う。とりあえずここでは、「民謡を起源とし、なかば伝説的な主人公を扱った叙事詩的な物語」というぐらいにお考えいただけたらと思う。ノヴゴロドの商人サトコはそのブィリーナに登場する人物の一人であり、またこのオペラの中でいくつかのブィリーナ歌謡が披露されるところから、「オペラ・ブィリーナ」という呼称がつけられたものと考えられる。
さて歌劇<サトコ>だが、これは上演時間が約2時間50分にも及ぶ長大なオペラである。しかし、それにめげず、これからしっかりとその全曲の流れを追っていきたい。
―歌劇<サトコ>のあらすじと、音楽的特徴
〔 第1場 〕
ノヴゴロドの商人たちが祝宴を楽しんでいる場面。キエフの歌い手ニェジェータ(A)が、グースリの伴奏で故郷の英雄についての物語を歌う。彼への返礼として、ノヴゴロドの歌手サトコ(T)が続いて歌う。しかし、彼が歌いだしたのは、遠い国へ船出して新しい市場を開拓したいという彼自身の野心であった。当時のノヴゴロドには海につながる川がなかったので、そんな旅を考えること自体が無謀なものとされ、サトコは皆から嘲笑を受けることになる。まわり中から総スカンを食ったサトコはしょんぼりとその場を去るが、二人の道化がさらに追い討ちをかけるように、彼をからかって歌う。
(※オペラの開始を告げる序奏から、いきなりR=コルサコフ節だ。下降する三つの音を低弦が繰り返し、ゆったりと波がうねる海の情景を描き始める。そして開幕直後の祝宴風景では、男声合唱による非常に力強い歌が聴かれる。続いて歌われるニェジェータのブィリーナも、よく聴いていると背景の管弦楽伴奏が海の情景を巧みに描き出しているものであることがわかる。)
(※第1場を締めくくるのは、パワフルで華やかな舞曲。ここは一種のディヴェルティスマン効果を持つ場面だが、指揮者にとっても腕の見せ所であろう。)
〔 第2場 〕
夜。月の光に照らされたイリメニ湖のほとりで、サトコがグースリを弾きながらしょんぼり歌っていると、水草が鳴り、水面が波立って白鳥の群れが現れる。やがてその鳥たちは、岸に上がるや美しい娘たちに変身する。彼女らは海王オキアン=モーリェ(B)の娘たちで、その中心に王女ヴォルホヴァ(S)がいる。皆、サトコの歌に聞き惚れて出てきたのだ。美しい王女とサトコは、お互いに惹かれあう。王女は、「あなたに黄金の魚をあげるわ」とサトコに約束する。やがて夜が明けると海王が現れ、娘たちを水底に連れ帰っていく。
(※海の乙女たちの出現シーンは、R=コルサコフの巧みな管弦楽法によってとても美しく書き上げられている。特に、木管やハープの使用が効果的だ。波が揺らいで白鳥たちが現れるところと最後の幕切れシーンでは、あの<ラインの黄金>の開幕で聞かれるライトモチーフによく似た音型が出て来る。サトコと王女の二重唱に女声合唱が重なってくる場面も、非常に夢幻的で良い。)
〔 第3場 〕
明け方。サトコの若い妻リュバーヴァ(Ms)が、家で夫の帰りを待っている。やがて帰宅したサトコに彼女は飛びつくが、彼の方は昨夜の不思議な体験にまだ心が支配されている。妻をまともに相手にせず、サトコは思うところあって再び出掛けて行く。
(※この第3場の終曲もまた、海を思わせる音楽になっている。低弦のうねり、それに加わる金管と打楽器。これは、サトコがやがて向かうことになる未来の情景を暗示しているのかも知れない。)
〔 第4場 〕
人で賑わうイリメニ湖の岸辺。町の人々が外国から来た商人たちを囲んで、様々な異国の品々を眺めて楽しんでいる。ニェジェータが、ノヴゴロドの町を讃えて歌う。サトコがそこへ姿を現し、「皆さん、ご存知ですか?イリメニ湖には黄金の魚がいることを」と人々に話しかける。彼は再び、まわりから嘲笑を浴びる。サトコは、彼らに提案する。「では、このイリメニ湖で黄金の魚が獲れるかどうか、賭けをしてみようじゃないか。俺の首と、あんたたちの全財産を賭けて。どうだい」。町の長老たちと数人の商人たちが、サトコと一緒に湖へやって来る。果たして、王女の約束どおり、彼が投げた網で黄金の魚が3匹も獲れたのだった。サトコは一躍、英雄的存在になる。
賭けの成功によってサトコは裕福な男となり、立派な船で堂々と海へ出て行ける立場になった。彼は外国から来た商人たちに、それぞれの国の様子を尋ねる。ヴァリャーグの商人(B)、インドの商人(T)、ヴェネツィアの商人(Bar)らが次々と、故郷のことを歌って聞かせる。それからサトコはやって来た妻リュバーヴァに別れを告げ、大海原に船出するのだった。
(※市場の賑わいは、混声合唱によって壮麗に歌いだされる。ダッ、ダッ、ダー!と始まる力強い三連音によって、いかにもロシア・オペラらしい雰囲気が生み出されているのが痛快だ。二人の道化も再び登場し、その場を盛り上げる。)
(※ヴァリャーグ商人の歌は、時に「ヴァイキング商人の歌」と訳されることもあるようだ。バス歌手が歌う有名な歌曲の一つである。轟然とうなる弦の前奏は、荒々しい海のうねりを描いたものと考えてよいだろう。)
(※それに続くインド商人の歌は、このオペラの中でおそらく最も有名な曲である。リリック・テナーが歌う「インドの歌」のメロディは、実は昭和40年代初頭前後にしばしばTVのコマーシャル・ソングとして流れていた。商品名は、「明○キンケイ・インドカレー」というのだが、そのCMソングの一節、「明○ キンケイカレ~♪」のメロディこそ、このR=コルサコフの「インドの歌」なのであった。私の場合、これは小学生時代の思い出になるのだが、そのオリジナルとなっているオペラ・アリアを初めて聴いたのは大学生になってからだった。その時は思わず、「おおっ、こ、この歌は」と目を大きく見開いてしまったものである。w ちなみに、背景に流れる伴奏もまた、海を描いたものであることは明らかだ。ヴァリャーグ商人が歌う荒々しい海とは対照的に、オリエンタル・ムード溢れる穏やかな表情の海である。)
―この続き、残りの第5場から第7場の内容については、次回。
「歌劇<サトコ>(2)」2006年11月01日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/ea629b0fd7d7110ff900ef90ded2dbb3]
前回の続き。R=コルサコフの歌劇<サトコ>の残り部分、その終曲までの展開である。
〔 第5場 〕
船出から12年。海は、ベタ凪(なぎ)。他の船は普通に航海しているのに、サトコの船は全然進まない。彼は黄金や宝石を海に流して海王をなだめようとするが、全く効果なし。王が望んでいるのは、人間の生け贄だった。乗組員たちがくじ引きをすると、当たったのはサトコ。「王女ヴォルホヴァが俺を呼んでいる、ってことだな」。彼がグースリを抱えて海に沈むと、船は滑らかに動き出して去って行く。
(※第5場の前奏曲は、第1場のものと同じである。怖いぐらいにどよーんとした海の情景が目に浮かんでくるようだ。歌劇<皇帝サルタンの物語>にも渺茫たる大海原を描いた名曲が出て来るが、R=コルサコフは様々な海の表情を描写する音楽が実に巧い。)
〔 第6場 〕
海の底。宮殿に海王と女王、そして家臣たちがいる。王女ヴォルホヴァは海藻で機(はた)を織っている。そこへ巻貝に乗ってサトコがやって来る。海王は、彼を叱る。「12年も海を使って、その間ワシに全く挨拶せんとは、何たる無礼じゃ」。しかし、王女のとりなしで王は機嫌を取り戻し、サトコに向かって何か歌ってくれと所望する。そして彼の歌が気に入った王は、娘ヴォルホヴァとの結婚を認める。やがて始まる婚礼の宴。サトコの踊りに王や女王も加わって、それは次第にとんでもないドンチャン騒ぎに発展する。その浮かれた大騒ぎは海面に大嵐を巻き起こし、航海中の船を次々と沈め始める。
そこへ突然、昔の戦士の亡霊である老巡礼が出現し、サトコのグースリを手で打つ。全員の激しい踊りが止まる。「海王よ、この帝国もそなたの時代で幕引きだ。海底に去るがよい。王女ヴォルホヴァよ、お前はノヴゴロドを流れる川になるのだ。サトコよ、お前もこんな場所ではなく、ノヴゴロドのために歌うがよい」。海王はおとなしく姿を消す。一方、サトコとヴォルホヴァは、2人揃って海の上まで昇っていく。
(※ここで海王に求められてサトコが歌いだすのは、海底の王国への熱烈な賛歌である。王が気に入ったのも当然というべきか・・。また、サトコを愛する海の王女ヴォルホヴァが彼の歌に声を合わせてくるのだが、これが実に美しい。音楽面に於けるこのオペラの主役は事実上、海の王女であると言ってよいだろう。)
(※続く結婚祝いの場面では、「金のひれと銀のうろこの魚の踊り」というのが披露される。これは舞台映像がほしいところだが、音楽だけを聴いていても楽しめる部分がある。弦のピチカートに乗りながら木管がゆらめくあたり、何とも言えない味がある。)
(※サトコの歌に続く祝宴は次第にとんでもないドンチャン騒ぎになっていくが、ここはR=コルサコフの壮麗な管弦楽法がまさに本領を発揮するところだ。いや、凄いサウンドである。これじゃ海上の船はひとたまりもないだろうなあ、とうなずかせるだけのぶっ飛びパワーがある。w )
(※突然出現して話を腕ずくで解決に持っていってしまう老巡礼は、「いきなり出て来て、あんた誰よ」と思わず訊いてみたくなるようなキャラクターだが、原典となるブィリーナにはもっと説得力のある人物が出て来る。そのあたりについては、次回ちょっと補足してみたいと思う。ここを聴いていて面白いのは、背後に流れる伴奏である。弦が中心ではあるのだが、よく聴くと控えめながらオルガンがピコピコ鳴っている。やはり、このような霊的存在にはオルガンが似合うというイメージがあるのだろうか。)
〔 第7場 〕
イリメニ湖の岸辺に着いて、眠り込んでいるサトコ。王女ヴォルホヴァがその寝顔を眺めながら、美しい子守唄を歌う。その後、彼女は霧のように溶けながら川に姿を変えていき、ノヴゴロドの町から海へと注ぐヴォルホヴァ川になる。それから少し経って目を覚ましたサトコの耳に、懐かしい妻リュバーヴァの声が聞こえてくる。夫婦の再会を喜びあう中で、サトコはそれまでのことを妻に詫びる。やがて、部下たちを乗せたサトコの商船もヴォルホヴァ川を上って、町にたどり着く。サトコはそれまでの体験を、集まった人々に語る。海の王国、そこでの祝宴と嵐、海王を去らせた老巡礼・・・。今やノヴゴロドには、航海を可能にする立派な川が出来た。老巡礼と青い海、そしてヴォルホヴァの川を讃える全員の力強い合唱が響くところで、全曲の終了となる。
(※ここで聴かれる海の王女の子守唄「夢は岸辺をさ迷い歩き」は、名曲中の名曲だ。知名度では前回出てきた「インドの歌」の方が上であろうが、その美しさに於いて、この子守唄はもう別格である。聴いていて、本当にうっとりしてしまう。私が今回参照しているゲルギエフの全曲盤で歌っているのは、ワレンチナ・ツィディポワという人だが、この人の歌は見事だ。名歌手ヴィシネフスカヤのEMI盤《ロシアの名歌曲とアリア集》でも「海の王女の子守唄」を聴くことが出来るが、私の感ずるところ、ツィディポワさんの歌唱の方がずっと感銘深いものである。そしてこの子守唄の後、王女は静かにその姿を川に変えていく。これは舞台上演よりも、映画作品の形で見てみたいなあと思う。きれいな映像になりそうだ。
―以上で、歌劇<サトコ>は終了。次回は、歌劇<サトコ>の原典となっているブィリーナのお話。
(PS) ブログ立ち上げ2周年
昨日10月31日は、当ブログの誕生日であった。これで満2歳になり、3年目に入ったわけである。数日のインターバルを取りながらのゆったり更新ではあるものの、よく現役で続いているなあと思う。とりあえず、ハッピー・バースデイ・トゥ・ミー♪とでも歌っておこうか。のほほほ。
「ブィリーナの英雄たち」2006年11月06日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/41da2fafc4cbc65a98ac197a6f17f9fb]
前回まで語ったR=コルサコフの歌劇<サトコ>の主人公は、ロシアの古い英雄叙事詩「ブィリーナ」に元々出て来る人である。このブィリーナの定義や成り立ち、あるいは歴史的経緯みたいなものについては、専門家の中村喜和氏が『ロシア英雄物語~語り継がれた《ブィリーナ》の勇士たち~』(平凡社)という著書の中で詳しく紹介してくださっている。また、作家の筒井康隆氏が読みやすい日本語で物語を紹介し、そこに手塚治虫氏が挿絵を入れた『イリヤ・ムウロメツ』(講談社)というお楽しみ系の本もある。勿論、関連の書物は他にも色々あると思うが、とりあえず私が読んで知っているのは、この二点である。
筒井氏が手がけた後者『イリヤ・ムウロメツ』の巻末には、上述の中村氏による解説が付いている。そこで氏は、この叙事詩に出て来る英雄たちを大きく3つのグループに分けておられるのだが、これはブィリーナの物語世界を俯瞰する上で非常に有力な手がかりになるものだ。そのポイントをかいつまんで書き出してみると、だいたい次のような感じになろうかと思う。
●第1のグループ : 最も古い神話時代の豪傑たち
「この大地に取っ手が付いていたら、ワシがそっくり持ち上げてみせるわい」と豪語する大巨人スヴャトゴールや、鷹や狼などに変身して活躍する勇士ヴォルフなど、神話的なキャラクターが登場するグループ。
●第2のグループ : イリヤ・ムウロメツをはじめとする様々な英雄や勇士たち
幾多の英雄や勇者たちが群雄割拠するグループ。特に、「ムウロムの人イリヤ」を意味するイリヤ・ムウロメツがその代表的人物となっている。この英雄を巡る様々なエピソードを筒井康隆氏が手際よくまとめた本が、上にご紹介した『イリヤ・ムウロメツ』(講談社)である。また、彼を主人公にした『イリヤ・ムーロメッツ』という劇映画も昔作られていたようで、数日前ネット通販サイトでそのDVDを見かけた。
数多く存在するイリヤの武勇伝の中でも特に有名とされているのは、悪魔ソロウェイをやっつけた話のようだ。ソロウェイというのは、英語ならナイティンゲールに相当する単語で、「うぐいす丸」などというちょっと時代がかった邦訳がついている。こいつは恐ろしい声を発して人も動物も皆失神させてしまう魔物なのだが、イリヤの矢で片目を射抜かれる。その他にも大巨人スヴャトゴールとの交友、チェルニーゴフの戦いでの一騎当千の活躍、怪物イードリシチェや白眼の化け物との対決、息子を自らの手で殺すことになる苦い戦闘、そして天の怒りを受けたことによる意外な死に方、といった英雄イリヤの様々なエピソードが筒井氏の本で紹介されている。
中村氏の『ロシア英雄物語』によると、このイリヤ・ムウロメツの遺骸とされるものが長い間キエフの洞窟修道院に安置されていたそうである。ロシア各地から来る巡礼たちは、イリヤが古代ロシアに実在した一番の勇士であったことをいささかも疑っていなかったそうだ。ブィリーナという言葉自体は、「実際にあったこと」を意味する単語らしいのだが、このような素朴な信仰がその裏打ちになっているものと考えられるようである。
中村氏による同書には、イリヤの他にアリョーシャ・ポポーヴィチ、ドブルィニャ・ニキーティチなどの英雄たちも登場してくる。前者は「司祭の息子アレクサンドル」という意味の名を持つ、女好きの豪傑だそうだ。彼が大蛇の子トゥガーリンという怪物を倒した話が載っている。
後者ドブルィニャ・ニキーティチも、ブィリーナの世界では非常に高名な勇士らしい。中村氏の本では、彼の妻ナスターシアの話に多くのページが割かれている。夫のドブルィニャが長い年月にわたって戦いに出かけている間、妻ナスターシアはじっと待ち続ける。そこへアリョーシャ・ポポーヴィチがやって来て、「あなたの夫は、戦場でひどい死に方をしてしまいました」と、彼女に嘘を言う。そして、彼女がそのアリョーシャと再婚してしまいそうになる直前に、怒り心頭で帰ってきた夫が彼女を取り返し、夫婦は無事元のさやに収まるというお話だ。怒れるドブルィニャは最後にアリョーシャを半殺しの目にあわせるのだが、その理由が妻に手を出されたことではなく、自分のことを惨めな戦死者に仕立てた嘘の方にあったというのが面白い。
●第3のグループ : ノヴゴロドの英雄たち
中村氏の『ロシア英雄物語』には、この最後のグループの主人公として2人の男が登場する。陽気な度外れ男ワシーリィ・ブスラーエフと、グースリ弾きのサトコである。
前者ワシーリィの物語は、エルサレムへの巡礼行が題材になっている。話のポイントは、その往復路で彼がしでかす“おいた”。道に転がっている亡き戦士のしゃれこうべを足で蹴飛ばして、そのしゃれこうべに叱られてみたり、「この石のまわりで遊ぶべからず」という警告を見るや、わざとそこで仲間と悪ふざけをしてみたりするのである。結局、彼はその石のところでジャンプに失敗し、首を折って即死するのだった。w
一方、R=コルサコフがオペラの題材に採用したことで有名になったのが、後者のサトコである。とりあえず、中村氏の本に載っているサトコの物語から、オペラと関連のある部分のあらすじを書き出してみたい。
{ サトコはグースリという楽器を演奏する歌人である。各地の祝宴に招かれては歌い、そこでいただく物が彼の収入になっている。また、そういう生活をしているため、彼は独身である。
サトコが一人、しょんぼりとイリメニ湖畔で歌っている。何日経っても、どこからもお呼びがかからないので、すっかりしょげているのだ。ある時、湖底に棲む水の王が姿を現す。サトコの歌に惚れ込んだ彼は、「お礼に、黄金の魚でお前を金持ちにしてやろう」と申し出る。その後、彼はその魚を巡ってノヴゴロドの人々と賭けをし、見事勝利を収める。裕福になった彼は商人としてさらなる成功を収め、ようやく妻を娶ることになる。
一介のグースリ弾きから豪商になったサトコは、やがて大海原に船出する。海を渡る商売で、彼は何年にもわたって大もうけを味わう。しかし、ある時、彼の船だけが洋上で動かなくなる。何年間も全く挨拶しないサトコの態度に、海の王が怒ったのだ。そして生け贄を選ぶ船員たちのくじ引きで、サトコが当たりになる。その後、海底に沈んだサトコは海王の要求に応じて歌い出す。やがてサトコの歌に合わせて踊りだす海王がひどい嵐を起こし、海上の船を沈め始める。荒れる海に困った人々が、正教の守護聖人であるモジャイスクのニコラに助けを求めて祈る。
人々の祈りを聞いたニコラが海底のサトコのもとに現れ、歌を止めるようにと進言する。聖人は丁寧に事態の解決へとサトコを導き、最後に自分のために聖堂を立ててくれと依頼する。ニコラの助言を素直に実行して、まずサトコは海王と折衝する中で乙女チェルナヴァ(=ヴォルホヴァの別名とする説もある)を妻として選ぶ。しかし、聖人の言いつけを守って、彼女に手は出さない。サトコが眠りから覚めると、彼はチェルナヴァ川の岸辺にいた。やがて、そこへかけつけた妻や、船で川を上って帰郷してきた部下たちと再会したサトコは、それまでの不思議な体験を皆に語って聞かせる。その後、彼は大いなる富を活かして聖人モジャイスクのニコラのための大聖堂を建立し、さらに聖母の教会も建てた。 }
以上ご覧いただいた通り、歌劇<サトコ>のストーリーは、このブィリーナの展開をだいたいその通りに踏襲したものである。しかし、相違点もまた少なからず見受けられる。例えば、海の王女が原典には全く出てこない。あの魅力的な女性は、R=コルサコフの“でっち上げキャラ”だったのだろうか・・。尤もブィリーナの物語は語り手や時代、あるいは地域によって、同じ題材にも沢山のヴァージョンが存在するので、ひょっとしたら海の王女がちゃんと出て来るものが他にあるのかもしれない。
一方、「海王たちのドンチャン騒ぎを鎮めるために、人々の祈りに応えた守護聖人が現れてくる」というここでの筋書きには、非常に説得力がある。オペラの中で唐突に出て来る謎の老巡礼よりも話に脈絡があるし、聖人が聖堂の建立をサトコに頼むという展開にも歴史的な根拠があるからだ。ノヴゴロド年代記1167年の項に、「ソドコ・スィチニツなる人物が、この地に石の教会を建てた」という記録があるらしいのである。いや、この世界、かなり奥が深い・・。
―次回も、R=コルサコフのオペラ。ブィリーナを伝承する上で重要な役割を担っていたとされるスコモローフ(=放浪の楽師、芸人)たちが出て来る、作曲家初期の傑作を一つ。
◆リムスキー=コルサコフ:歌劇『サトコ』/ティムール・ザンギエフ指揮ボリショイ劇場(2020年)[日本語字幕付Blu-ray]【Amazon】

「歌劇<雪娘>」2006年11月12日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/a055cce9d16b65b9fa9c3f68b54f6f11]
R=コルサコフの初期オペラに、<雪娘>(1882年初演)という作品がある。これは、アレクサンドル・オストロフスキー(1823~86)の童話『雪娘-春のおとぎ話』を題材にした歌劇だ。若い頃のR=コルサコフらしく、後年のこってりしたサウンドとは対照的に、しばしば水彩画に例えられるような透明感のある響きを持つところが特徴になっている。しかし童話がもとになっているとはいえ、全曲の上演時間は約3時間15分ほど。相当な長編オペラである。まずは、その物語の概要から・・。
―歌劇<雪娘>のあらすじ
〔 プロローグ 〕
厳寒のマロース翁(B)は太陽神にとっては仇敵となる存在だが、このマロースに春の美(Ms)が惹かれ、15年前に子供をもうけた。それが、雪娘スネグーロチカ(S)である。この出来事は太陽神ヤリーロの機嫌を損ね、ベレンデイ国は長い冬と寒い春が繰り返すような場所になってしまった。
やがて年頃になった娘を太陽神から守ろうと、両親は彼女を人間界に委ねることにする。折しも、人間界では謝肉祭の宴。雪娘は気のよい小作人の前に現れ、養女にしてもらう。
〔 第1幕 〕
ベレンデイ国には、素晴らしい歌で国中の女性をとりこにしている青年がいる。羊飼いのレーリ(A)である。このレーリに心惹かれる雪娘だが、彼女は父ゆずりの血によって恋ができない。金持ちムラシュの娘クパヴァ(S)は雪娘に同情するものの、自分の婚礼の準備に忙しい。そこへ彼女の恋人である行商人ミズギール(Bar)が帰ってくる。しかし彼は雪娘を一目見るやたちまち恋に落ちてしまい、クパヴァから離れていく。絶望するクパヴァを、レーリが慰める。
〔 第2幕 〕
ベレンデイの皇帝(T)は考えている。「失われた太陽神の好意、臣民たちの愛、そして国の自然をどうやって取り戻そうか」。そして彼は、太陽神の祭日を期に、若者たちの合同結婚式を実施しようと決める。
皇帝のもとにやって来たクパヴァが、恋人ミズギールの裏切りを訴える。皇帝はミズギールを呼んで責めるが、彼の心は完全に雪娘のとりこになっている。皇帝から流刑を言い渡された彼は、「言い訳は致しません。雪娘をご覧になったら、きっとご理解いただけるでしょう」と皇帝に答える。やがてそこへ姿を現した雪娘を見て皇帝は、「この娘こそ、太陽神を宥めることの出来る女子(おなご)じゃ」と確信する。そして、国の男たちに、「この娘の心に暖かい愛を呼び起せる者はおるか」と問いかける。ミズギールが立候補する。
〔 第3幕 〕
太陽神ヤリーロ祝祭の前日。人々の賑やかな集まりの場で、若者たちが歌って踊る。さらに、スコモローフ(=放浪の楽師、芸人)たちの華やかな踊りも披露される。それに続く羊飼いレーリの歌に深く感じ入った皇帝が、「誰でも好きな女子を選び、その子から愛の接吻を受けるがよい」と告げると、レーリはクパヴァを選ぶ。ショックを受けた雪娘は、そこから立ち去る。その彼女のもとへミズギールが駆けつけて求愛するが、雪娘は応えられずに逃げる。その後、レーリとクパヴァが逢引している場所に現れた雪娘は、強い嫉妬を覚える。彼女は母親に、「私に愛を教えて」と呼びかける。
〔 第4幕 〕
雪娘の母である春の美が現れ、娘に「愛を知る花の冠」を与える。やがて現れたミズギールの求愛に、雪娘は応える。しかし、母からの注意を聞いて太陽には当たらないようにしたかった雪娘だったが、ミズギールはそれを聞かず、皇帝のもとへと彼女を連れて行く。そして二人が愛の実現を報告したその時、太陽が雪娘の心に暖かく差し込む。彼女は溶けて消滅する。絶望したミズギールは、湖に身を投げてしまう。皇帝は、「これは、15年前に春が雪娘を産んだことに対する太陽神の怒りじゃ。しかし、この二人の犠牲によって、ベレンデイの国にまた太陽がもどってくる」と、皆に告げる。全員による『太陽への賛歌』が力強く歌われて、全曲の終了。
以上、長い話を出来るだけコンパクトにまとめてみたが、その背後にある思想や宗教観、あるいは登場人物達の象徴的な意味等を理解するのは、我々外国人にはかなり難しいように思える。そのためこのオペラは、ロシア国内での人気はともかく、国際的な高評価を得るレベルまでには至っていないようである。
―歌劇<雪娘>のCD
歌劇<雪娘>の全曲盤は、現在数種類が入手可能なようだ。私が持っているのは、若きエフゲニ・スヴェトラーノフの指揮によるボリショイ劇場での1956年・モノラル録音盤。古い録音で指揮にも硬さが感じられるものの、歌手陣は豪華。ただし、本来ならCDがたっぷり3枚は必要なところを2枚にぴっちり収めているので、当然ながら、あちこちにカットがある。
この盤の出演歌手陣は、さすがにボリショイ・オペラ黄金期の録音らしく、かなり豪勢な顔ぶれが揃っている。中でもまず筆頭に挙げるべきは、皇帝役のイワン・コズロフスキーだろう。「おとぎの国で永遠に年老いた姿で生き続ける、叡智の象徴」というこの半神話的キャラクターを、彼はその独特の声と歌い方で見事に表現している。第2幕後半で歌われる『皇帝のカヴァティーナ』など、西欧的な美感とはかなり隔たった独自の世界を生み出す。(※彼と同時代の良きライヴァルだったセルゲイ・レメシェフもこの役を得意にしていたそうだが、両者はおそらく甲乙つけがたいものであったろう。)
クパヴァ役が若き日のガリーナ・ヴィシネフスカヤ、というのも面白い。この録音当時、彼女は、「クルグリコワ以来の名タチヤーナ(=<エフゲニ・オネーギン>のヒロイン)」を演じるようになっていた。ここでの歌唱にも、そのタチヤーナ的な表情が随所に出ていて、何ともほほえましい。第2幕で聴かれる『皇帝とクパヴァの二重唱』でも、コズロフスキーと彼女は絶妙の呼吸を見せる。しかし、「原詩に見られるロシア語の言語リズムを見事に旋律化した」と評されるこの二重唱は、ロシア語の分かる人でないと本当に味わうことは出来ないものだろう。私には残念ながら、不可能である。ガクッ・・。
羊飼いレーリを歌うアルト歌手ラリッサ・アフデイエワ、ミズギール役のバリトン歌手ユーリ・ガルキン、このお2人も好演。厳寒のマロース翁は出番の少ない役だが、アレクセイ・クリフチェーニャが演じていて、さすがの存在感、というか貫禄みたいなものを見せてくれる。この名バス歌手には、当ブログでも今後何回かご登場いただく予定である。ただ、雪娘スネグーロチカを演じるヴェラ・フィルソワの歌唱については、ちょっと私の感覚としては、あまり芳しい評価を出せそうにない。
(※ところで、このオペラには、「プロローグへの導入曲」「鳥たちの踊り」「皇帝の行進」「スコモローフたちの踊り」という4曲から成る小さな組曲版もある。私が持っているのは、エフレム・クルツという人がフィルハーモニア管を振ったEMI盤。この人はあまり高名な指揮者ではないが、ここでは色彩感豊かな表現で、意想外に良い演奏をやってくれている。)
―次回予告。オストロフスキーの童話『雪娘』が1873年にお芝居の演目として舞台にかけられた時、実はチャイコフスキーが劇音楽を書いていた。そちらはR=コルサコフのオペラよりもずっと前に書かれたものだったが、その後長く埋もれることとなった。チャイコフスキーのは劇音楽、R=コルサコフのはオペラ、ということで、この2つを全く同じ俎上に乗せて論じるわけにはいかないのだが、それでもこの両者を比べてみると、いろいろな発見があってなかなか興味深いものがある。―という訳で次回は、チャイコフスキーの劇付随音楽<雪娘>Op12をトピックにして、R=コルサコフのオペラで聴かれる音楽との比較を楽しみながら、この作品の鑑賞をもう少し深めていくことにしたいと思う。
◆リムスキー=コルサコフ:歌劇『雪娘』/ミハイル・タタルニコフ指揮パリ・オペラ座(2017年)[日本語字幕付Blu-ray]【Amazon】

「歌劇<イェヌーファ>(1)」2008年10月17日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/d11d48a2e37959c0a748dcdf95cb3b92]
皆様、はじめまして。このたびいきなり、私が語り役を任されることになってしまいました。前回の記事で作曲家ヤナーチェクの名に触れたことがきっかけで、「これからしばらく、ヤナーチェク・オペラのシリーズにしよう」とブログ主さんは思い立ったようなのですが、具体的にどの作品から始めようかと考えた折、<仮面舞踏会>から「い」をしりとりすればいいや、と<イェヌーファ>を最初に選ぶことにしたのだそうです。それで、この私に白羽の矢が立ったのでした。
あ、申し遅れました。私、ペトロンナ・スロムコヴァーと申します。と言いましても、私はその本名よりもむしろコステルニチカ、つまり「教会のおばさん」という呼び名の方で通っております。教会のお掃除やら、行事の準備やら、いろいろとお世話をしているものですから。で、タイトル役のイェヌーファというのは、私の娘。いえ、実の娘ではありません。私の夫と先妻(二人とも故人)の間にできた子供です。でも、この子は幼い頃から継母の私を「おかあさん」と呼び慕い、私たちは本当の母子のように生きてまいりました。作曲家の出世作ともなったこのオペラは、そのイェヌーファの波乱に満ちた人生の一こまを描いているものです。
〔 第1幕 〕・・・スロヴァーツコ地方の山中にあるブリヤ家の製粉所。午後の遅い時間。
ブリヤ家を取り仕切るおばあさん(A)の孫娘イェヌーファ(S)が、好きな人の帰りを待っています。(おばあさんにとってイェヌーファは、死んだ次男の子供、つまり血のつながった孫娘です。)そしてもう一人、ラツァ(T)という若者が、やはり最初のシーンから登場してきます。この子も一応、ブリヤのおばあさんの孫ではあるのですが、血のつながりはありません。と言いますのも、ラツァは、おばあさんの長男(次男と同様、すでに故人)の後妻に入った女性(故人)の連れ子だったのです。そのため、おばあさんはこの子をいつも冷たく扱ってきました。だから彼は、「俺には何もしてくれなかったよな」と、いきなり冒頭から恨み言を並べているわけです。
そのおばあさんがずっと可愛がってきたのは、シュテヴァ(T)というもう一人の孫。シュテヴァは、おばあさんの長男と嫁の間に出来た子供なので、血のつながりがあります。だから、おばあさんの愛情は、そのシュテヴァにばかり注がれてきたのでした。でも、そうして甘やかされて育った結果、シュテヴァはひどくわがままで無責任な男に成長してしまいました。イェヌーファの悲劇は、彼女がそんなろくでもない従兄(いとこ)にたぶらかされ、深い関係を持ってしまったことにあります。彼女は今、シュテヴァの子を妊娠しています。これが、事件の始まり。
イェヌーファがシュテヴァの帰りを待っているのは、「彼が兵役に取られたら、おなかの赤ちゃんの父親がいなくなってしまう」と、心配しているからです。彼女は、シュテヴァと早く結婚して落ち着きたいのです。ラツァはそんな彼女の気持ちを知っており、彼自身もイェヌーファが好きなので、嫉妬心を抑えることが出来ません。
場面が進みます。「あいつが兵隊に行ってしまえば、俺にもチャンスがある」というラツァの期待もむなしく、シュテヴァは兵役から外されました。やがて気炎を上げる新兵たちの一団とともに、酔っ払ったシュテヴァが帰宅し、そこから一同揃っての「歌えや、踊れ」の大騒ぎが始まります。【※注1】
そして、その騒ぎのさなかに登場するのが私、コステルニチカ(S、またはMs)です。【※注2】楽師たちに演奏をやめさせて全員を静まらせた後、私は喜び舞い上がるイェヌーファに、母親としてしっかり注意を与えました。「あなたの結婚には、私の許可が必要です。この男が、これから1年間、こういう姿にならずにちゃんとできたなら、そこで考えてもいいでしょう」とね。新兵となった若者たちは揃って、「こりゃ、厳しい人だ。厳しい人だ」と繰り返しますがね、親としてそれぐらいするのは当然でしょう。
続いての場面は、イェヌーファとシュテヴァのやり取り。「ねえシュテヴァ、私、早く結婚したい。あなたが私をお嫁にしてくれなかったら、おかあさんが何するか分からない。私だって、何するか分からないわよ」と迫るイェヌーファに、「お前を放ってはおかないよ。・・・そのリンゴみたいなほっぺが素敵だ。イェヌーファが一番きれいだ」などと、ろくでなし男が口先だけのきれいごとを言って応えます。
ブリヤのおばあさんとシュテヴァが去ってイェヌーファは一人になりますが、そこへラツァがやって来ます。彼は花束と一緒に(オペラの冒頭シーンからいじっていた)ナイフを手に持って現れ、イェヌーファに嫉妬心をぶつけます。そして無理やり彼女にキスしようと迫ってもみ合いになり、うっかりした拍子に、彼はイェヌーファの頬をナイフで切ってしまうのです。ブリヤのおばあさんと水車職人の親方(Bar)が、「何事か」と駆けつけてきました。思わぬ大事になってラツァはすっかり挙措(きょそ)を失い、逃げ去っていきます。「逃げるな!お前、わざとやったんだろうが!」という親方の怒鳴り声が響くところで、第1幕が終わります。
―この続き、第2幕から先の展開については、次回です。期してお待ちくださいまし。
【※注1】 ここでの狂乱騒ぎは、歌劇<イェヌーファ>の中でも最も見栄え、聴き栄えがする箇所であろう。民族色豊かなリズムと華麗な管弦楽、そして合唱。<イェヌーファ>が、ヤナーチェク・オペラの中でも比較的早くに認められたのは、この舞曲のような分かりやすくて乗りの良い音楽を持っていたことが一つの理由だったのではないかと思われる。
【※注2】 コステルニチカが登場する場面の歌は、オリジナル版と後の版で少し違いがある。ブリヤ家の男たちのひどい酒癖によって自分が大変な苦労をさせられてきたことを最初に語り、それからイェヌーファに注意するのが、オリジナル。しかしその後、「これはドラマの流れを阻害する」と、ヤナーチェク自身が前半部分をカットした。今回参照している全曲録音は、ボフミル・グレゴルの指揮によるEMI盤と、チャールズ・マッケラスの指揮によるデッカ盤だが、グレゴル盤では前半部をカットした慣習的な楽譜が使われている。一方、マッケラス盤はカットされた部分をあえて復活させ、「コステルニチカがどんな経験をして、こういう厳しい人になったか」について、しっかりと本人に語らせている。
「歌劇<イェヌーファ>(2)」2008年10月27日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/688bba1f0c03b31037c2eac3407c313f]
今回は、ヤナーチェクの歌劇<イェヌーファ>の第2回。第2幕と、第3幕前半の内容。
〔 第2幕 〕・・・第1幕の出来事から6ヵ月後。コステルニチカの部屋。
あれからずっと、私はイェヌーファを家にかくまってきました。世間様には、「あの子はウィーンへ、奉公に行きました」と、嘘を言いましてね。シュテヴァの子供?産まれましたよ。私は望みませんでしたが、産まれてしまいました。で、その子がまた、あのろくでなしにそっくり。私はどれほど悩み、苦しんだか。あとは何としても、イェヌーファとシュテヴァの二人を結婚させねば大変なことになります。このままでは、家名の恥ですからね。いえ、何より、私の恥です。「ああいうふしだらな娘を育てたおばさん」と、人々から後ろ指さされるようになるのは明らかですから。そこで、イェヌーファがよく眠っている間、私はシュテヴァをこの家に呼んで直談判しました。でも、彼の返答は次のようなものでした。
「イェヌーファと結婚しろって?そりゃ、無理だよ。あいつだんだん、あんたに似てきてさ、やけにキツくなったんだよね。それに、あの頬の傷。あれ見たら、思いっきり冷めちまったね。あ、子供のことなら、俺ちゃんと金出すからさ、俺の子だなんて表沙汰にはしないでくれよな。だって俺、村長さんとこのカロルカとこないだ婚約したし。・・・でも、あんたホント怖いよ。まるで魔女みたいだ」。
これだけのことを言われた私がなおもすがって、「イェヌーファを幸せにしてやって、どうか」と哀願しても、シュテヴァは聞き入れず、そのままぷいっと出て行ってしまいました。そして、その姿を見かけたラツァが、入れ替わりにやって来ます。私はありのままを、彼に話しました。「1週間前に、イェヌーファはシュテヴァの子を産んだ」。ラツァもさすがに、この話にはショックを受けて表情を曇らせました。「イェヌーファと一緒になったら、俺がその子を育てることになるのか」って。私はしばらく黙ったまま、じっと考えました。そして考えあぐねた結果、ある決意をしたんです。まず、ラツァに一つ嘘をつこうと。「子供は産まれたけど、間もなく死んでしまった」ってね。シュテヴァがあんな男ですから、あとはラツァの真心にすがるしかないんです。
ラツァが去って私は一人になり、先ほどの決意を改めて自分の心に言い聞かせました。そして、イェヌーファとシュテヴァの間に生まれた赤ん坊をショールでくるみ、外へ出ました。【※1】その私の留守中に、イェヌーファが重い眠りから目を覚まし、祈りの歌を歌います。【※2】
やがて帰宅した私に、イェヌーファが尋ねます。「ねえ、私のかわいいシュテヴァちゃんは?」(あの子は、産まれた赤ん坊に父親と同じ名前をつけていたんです)。私は答えました。「お前、まだ知らずにいたんだね。あれから2日間も、お前は熱にうなされていたんだよ。その間に、子供は死んじゃったんだ」。そして、先ほどのシュテヴァとのやり取りについても、すべてをありのまま彼女に話しました。
そこへラツァがまたやって来て、ショックを受けているイェヌーファを慰めましてね、変わらない愛情を訴えるんです。私も、「シュテヴァのような男のことは忘れて、ラツァと一緒になりなさい」って、イェヌーファに勧めました。でね、イェヌーファもラツァの本当の心に触れて、その愛を受け入れることに気持ちを決めたんです。ああ、良かった。これで良かったんですよ。・・・でも、その晩から、私の精神は次第に不安定な状態に陥るようになりました。風の音にさえ怖気づき、「死神がここを覗いている」などと口走ったりしましてね。無理もありません。この日は本当に、私の一生のトラウマになるような事があったのですから。
〔 第3幕 〕・・・コステルニチカの家。
あれから3ヵ月経ち、春先の良い季節になりました。今、ラツァとイェヌーファの婚礼の準備が行なわれているところです。私の方は相変わらず、いいえ、前よりずっと状態が悪くなっておりました。お祝いに来てくださった村長さん(B)も、私の変わりように驚き、心配そうな様子を見せました。その後、あのシュテヴァが婚約者のカロルカ(S)を連れてやって来ました。(この憎らしい男!私は心の中で、呪いの言葉を吐きました。)ラツァが招待したらしいのですが、私はシュテヴァの姿を見て一層気分が悪くなりました。
続いて、水車屋の召使パレナ(S)と村の娘たちが、婚礼祝いの歌を披露します。民謡風の、とても楽しげな曲です。そして、ブリヤのおばあさんに続いて私が新郎新婦を祝おうとした時、外からひどく騒がしい声が聞こえてきます。牧童のヤノ(S)がばたばたと駆け込んできて、皆に伝えます。
「氷が溶けた川の中から、赤ん坊の死体が見つかったよ!ビール工場の氷切りが見つけたんだ。今、板に乗せて運んでくるけど、きれいな羽根布団にくるまれてさ、赤い帽子かぶって、まるで生きているような死体なんだ」。
―次回は、歌劇<イェヌーファ>の最終回。ドラマの幕切れ部分と、ブログ主さんによる2つの全曲盤の聴き比べのお話です。どうぞ、お待ちくださいまし。
【※1】 「少ししたら、戻ってくる」と言ってラツァが立ち去った後、その言葉を引き継ぐようにしてコステルニチカの独白が始まる。ここは、このオペラを代表する名シーンの一つである。ナーヴァスな弦の運動に導かれ、「少ししたら、私は永遠の命も、救いさえも捨てなければならないのか」と、彼女は悲痛な心情を歌いだす。将来世間から笑いものにされるであろうイェヌーファと自分自身の姿を想像し、「この赤ん坊は、神様にお預けしよう」という決意を口にしてから、改めてシュテヴァを呪い、彼女は子供を抱えて外に出て行くのである。
【※2】 それに続くのは、「頭が重いわ」と、つらそうに起きてきたイェヌーファの独白。甘美なヴァイオリン・ソロが、絡むように流れる。「シュテヴァはまだ、会いに来てくれない」とこぼし、次いで、赤ん坊の姿がないことを知った彼女は、「おかあさんが、シュテヴァのところへ連れていったのかも」と考え、「イエス様、マリア様、私の可愛い子供をお守り下さい」と祈りの心を歌い始める。このあたりの展開は、すぐ手前にあるコステルニチカの暗鬱な独白と鮮烈な対比をなし、非常に劇的な効果を持っている。
「歌劇<イェヌーファ>(3)」2008年11月06日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/b3cb3b3a3a8e928d267818bfa3b23821]
今回は、ヤナーチェクの歌劇<イェヌーファ>の最終回。ドラマの幕切れ部分と、2つの全曲盤の聴き比べのお話。
〔 第3幕 〕・・・続き。イェヌーファとラツァの婚礼の日。
運ばれてきた赤ん坊の遺体を見て、イェヌーファはすぐに、それが自分の子供だと分かりました。「私のシュテヴァちゃん!」と、彼女は半狂乱になって叫びます。村の人たちは皆、これがイェヌーファの仕業だと誤解して、彼女を激しく責め始めます。ラツァが必死になって、イェヌーファを護ります。「お前ら、やめろ!俺の嫁に手を出しやがったら、ぶん殴るぞ」って。
そこで一同がすっと静まったところで、私は皆さんの前に進み出て、告白を始めました。「やったのは、この私です」。皆さん、ひどく驚いておられましたが、・・当然ですよね。そこから私は、こんな恐ろしい事をするに至った経緯を、皆さんに語りました。勿論、あの夜のことについても。その時の、子供の様子ですか?静かでしたよ。泣きもしませんでね。・・ただ、私の手だけは、まるで焼けつくようでした。
話を終えて膝を落とす私に、イェヌーファはやさしく、赦しの言葉をかけてくれました。私は、彼女に言いました。「もう、おかあさんとは呼ばないでね。それと、私のような性格を絶対に継いじゃいけないよ」とね。ええ、分かっています。私はイェヌーファを大切に思っておりましたが、それ以上に、結局自分のことが大切だったんです。・・・シュテヴァの縁談?当然、ご破算ですよ。「あんた、この事を知っていたの?」とカロルカに詰め寄られて、あの男は茫然としていた。今後はもう、シュテヴァに近づくような娘はいないでしょう。どういう男か、村中の人が知りましたからね。
村長さんに脇を抱えられて私は退場し、村人たちもそれぞれに散っていきました。イェヌーファとラツァの二人だけが、その場に残ります。イェヌーファは半ば放心し、自暴自棄になって言います。「ラツァ、あなたも行っちゃったら?見たでしょ、これが私の人生。こんなものに、あなたを巻き込みたくないから」。でもラツァは、それまでのすべてを、そしてこれから味わうであろう苦労のすべてを受け入れ、彼女と一緒に生きていく決意を伝えます。どうやら彼の愛情だけは、本当の本物だったようです。それは、この私にとっても救いです。そして美しいオーケストラ伴奏が支える彼らの二重唱によって、歌劇<イェヌーファ>は全曲の幕を閉じます。
・・・<イェヌーファ>の物語は、これで終了。ずっとお聞きいただきまして、有り難うございました。続いて、ブログ主さんのお話です。
―歌劇<イェヌーファ>の全曲録音から
ヤナーチェク・オペラの第3作に当たる歌劇<イェヌーファ>には、映像音源も含めて現在相当数の全曲録音が存在する。そのうち私が聴いたのは、下記の2種。以下、思いつくままの感想文を書いてみることにしたい。
●ボフミル・グレゴル指揮プラハ国民劇場管、他 (1969年録音・EMI盤)
LPレコードの時代には、このオペラの代表的な名盤とされていたもの。今聴いても、これは非常に優れた演奏だと思う。出演歌手陣ではまず、イェヌーファを歌うリブシェ・ドマニンスカーが好演。現在はこの人よりも上手な歌手がいるのだろうが、当時としては代表的な歌唱と言ってよく、役柄の性格をよく歌いだしてくれている。ラツァを歌うヴィレーム・プルシビルも情熱的な名演で、非常に良い。(※後述するマッケラス盤で歌っているヴィエスワフ・オフマンも立派だが、これは両者とも甲乙つけ難い出来栄えだ。)
しかし、このグレゴル盤でとりわけ素晴らしいのは、何と言ってもコステルニチカを歌うナヂエジダ・クニプロヴァーであろう。もう第1幕の登場シーンからして、この人が漂わせる存在感たるや、ちょっとただものではない。声質は、あのアストリッド・ヴァルナイをふと連想させるようなタイプのもので、「ソプラノ・レベルの高音が出せる、太くて強靭なメゾ・ソプラノ」という感じだ。国際的な知名度は高くなかったようだが、かなりの実力者であったとお見受けする。ちなみにこの方、後にフランチシェク・イーレクの指揮による<イェヌーファ>全曲録音にも、同じ役で出演していた。(ただし、そちらの出来がどうかについては、未聴のため不明。)
指揮者のグレゴルは長らくヤナーチェク・オペラの第一人者という評価を得ていただけあって、ここでも安定した指揮ぶりを見せている。尤も、この人にしてみれば、「これは並みの出来」というところかもしれないが。
●チャールズ・マッケラス指揮ウィーン・フィル、他 (1984年録音・デッカ盤)
国際的な評価が非常に高い、とても有名な演奏。このディスクの一番の魅力は何かと言ったら、それはもう、指揮者とオーケストラの素晴らしさであろう。目が覚めるような鮮烈な響きと、唖然とするほどに雄弁な表情。オーケストラ・パートの充実ぶりに関しては、全曲中どこを取ってもおよそ間然するところのない名演を聴くことができる。中でも、第2幕の演奏は圧巻の一語。異様な雰囲気を漂わせる前奏曲からド迫力のラスト・シーンに至るまで、もうひたすら圧倒的な演奏と言う他はない。また、第1幕の大騒ぎシーンで聞かれる舞曲なども、上述のグレゴル盤が「おとなし過ぎて、つまらない」と感じられるほど、ダイナミックに盛り上がる。デッカの録音も優秀だ。
ただし、歌手陣については、手放しの絶賛とはいきそうもない。とりあえず、ラツァを歌うヴィエスワフ・オフマンと、シュテヴァを歌うペテル・ドヴォルスキーは文句なしの名演。受け持った役柄をそれぞれが情熱的に、かつ的確に歌いだしている。一方、二人の主役女性については、ちょっと微妙な感じである。コステルニチカを歌っているエヴァ・ランドヴァーは上述のクニプロヴァーよりもずっと洗練された歌唱を示し、かなりスタイリッシュな印象を与える。しかし、この人の歌はどうも、私の心に響いてこない。エリーザベト・ゼーダーシュトレームのイェヌーファも、一般的には名演として名高いものである。確かによく歌っていると思うし、これを悪いと言って貶(けな)すつもりなど毛頭ない。ただ、その歌唱と役柄の間に、私は妙な隙間(すきま)を感じて仕方がないのである。聴いている間は、「熱演だよなあ」と思いつつも、終わってみると何とも心に残らない歌なのだ。繰り返しになるが、世評は高い。あとは、この演奏をお聴きになった方が、ご自身の感性で判断を下していただけたらと思う。
最後にもう一度、話を指揮者のマッケラスに戻してみたい。周知のとおり、この人は既にヤナーチェク研究の世界的権威という評価を不動のものにしているが、その学究肌みたいなものは、今回採りあげている<イェヌーファ>録音に於いても遺憾なく発揮されている。まずヤナーチェクのオリジナルどおりの楽譜で全曲の演奏を締めくくった後、余白にカレル・コヴァジョヴィッツの編曲による異なったオーケストレイションのエンディングを別途録音して付け足しており、さらに、序曲<嫉妬>までも付け加えているのである。序曲<嫉妬>というのは、元々このオペラの序曲として書かれつつ、結局採用されなかった5分半ほどの管弦楽曲だ。現在は、独立した演奏会用序曲として扱われている。決して悪い曲ではないが、まあ、オペラには使わなくて正解だったと思う。
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皆さん、こんにちは。このたび語り役を務めさせていただくことになりました、ヴァルヴァラ(Ms)と申します。え、と、私が誰かっていいますと、お話の舞台になっているカバノフ家という所でお世話になっている養女です。でも、先のコステルニチカさんみたいに、“事実上の主役”みたいに言われるような偉い人では全然なくて、本当に、普通の脇役です。それが、「主人公の不幸を一番親身になって語れるのは、あなたでしょ」って、ブログ主さんのご指名をいただいちゃって、今回の大役を任される事となりました。至らぬ点も多々あるかと思いますが、どうぞ宜しくお願い致します。ぺこり。
カバノフ家って、ヴォルガ川の近くにお屋敷を構える豪商でね、今はマルファ・カバノヴァー(A)っておばあさんが取り仕切ってるの。通称カバニハ。名前からして、怖そうでしょ(笑)。で、このカバニハの息子であるチホン(T)のもとに嫁いできた女性が、オペラの主人公カーチャ・カバノヴァー(S)というわけです。私から見れば、お義姉(ねえ)さん、って感じになるかな。これから始まるのは、そのカーチャ義姉さんが辿った悲しい運命の物語です。
〔 第1幕・第1場 〕・・・ヴォルガ川の岸辺にある公園。昼下がり。
私の彼氏クドリヤーシ(T)が召使のグラシャ(Ms)を相手におしゃべりをしているところからオペラは始まるんですけど、やがて彼らの視線は、豪商ジコイ(B)が甥っ子のボリス(T)を厳しく叱っている光景に向けられます。ここからが、お話の本題。このボリスって人、結構かわいそうな境遇でね、幼い頃両親がコレラで亡くなったとき、遺産をすべてジコイに預けられ、姉ともども成人するまではそのお金を返してもらえない、って話になっていたらしいの。だから、「俺一人のことじゃない。姉さんのために」って、じっと我慢してるんだって。で、実はこのボリスさん、カバノフ家の若奥様であるカーチャ、つまり私のお義姉さんに強い好意を寄せているのね。本人からそんな話を聞いたクドリヤーシは、「その関係を深めるのは、危険だぞ」って、彼に注意を与えます。
続いてカバニハとチホン、そしてカーチャ義姉さんと私が揃って、教会からの帰り道、ここを通りかかります。で、カバニハが、(いつもの事なんですけど)カーチャを目の敵にしたような小言を言い始めるんですよ。「チホン、お前はこの女と結婚してから、母親の私を大事にしなくなったね」とか。チホンは、「そんなことないよ」って言うんだけど、カバニハは聞く耳持たない。で、お義姉さんが何かを言えば、「お前は黙っとれ」って感じで突き放すし。そんな風に、お義姉さんは姑からしょっちゅうぶつけられるいわれのない侮辱に、とてもつらい思いをしています。でも、夫のチホンは母親にまるで頭が上がらないから、結局お義姉さんがいつも我慢させられることばかり。本当にかわいそう・・・。
〔 第1幕・第2場 〕・・・カバノフ家の一室
ここは、私とカーチャ義姉さんが二人でお話をしている場面です。お義姉さんが青春時代を思い出して、「あの頃は、なんて夢があったことでしょう」って、私に語ります。そして、「鳥になりたいって、時々思うわ」って。そうよね、お義姉さんにとって、この家は檻みたいなものですもんね。・・・でもそのうち、お義姉さんたら、私がびっくりするようなことを口にするんです。「私は、罪を犯そうとしている。足元に深い暗闇が口をあけているみたい。誰かに後ろから押されたら、つかまる物もなく落ちていきそう。・・夜、眠れない。・・誰かの優しい声がする。彼が私を、どこかへ連れ去ってくれる・・・」。―え、それって、不倫?私、そのお話をもっと聞きたくて、お義姉さんにちょっと迫ってみたんですけど、それ以上は聞き出せませんでした。すると、旅支度をしたチホンが姿を見せます。彼は母カバニハの命令で、商用の旅に出ることになったようなんです。
お義姉さんは、「あなたの留守中に、何が起こるかわからない。怖いから、私も連れてってちょうだい」って、チホンにすがりつくんだけど、全然取り合ってもらえない。そこへまたカバニハが来て、息子にあれこれと指図をし始めます。「わしを実の母親のように敬えと、この女に言え」「わしの言うことにちゃんと従えと、この女に言え」「何もしないで座っているようなことは許さんと、この女に言え」「窓から外をのぞくような真似はするなと、この女に言え」「若い男に目を向けるなと、この女に言え」って、もうそばで聞いていてうんざりさせられるような事ばかり言うんですけど、チホンがまた、その指図どおりカーチャ義姉さんに命じるの。・・・で、いよいよチホンが出かけるとき、お義姉さんは彼の腕を抱きしめます。するとカバニハは、「恥知らずな女だね!恋人にでもさよならを言っているのかい」って、また彼女をののしるんです。
〔 第2幕・第1場 〕・・・カバノフ家の一室から奥に引っ込んだ仕事部屋。午後の遅い時間。
カーチャ義姉さんと私、そしてカバニハの三人が刺繍をしているところです。カバニハのいやみな言葉がまた、お義姉さんに浴びせられます。「お前、夫がいなくなっているのに、悲しんでいる様子がないじゃないか。他の女たちだったら、大声あげて悲しむのに」。それに対してお義姉さんは、「大声で泣いたりするのは、私の性(しょう)に合わないですから」って静かに答えるんだけど、カバニハは不機嫌な顔をして出て行っちゃった。
でね、お義姉さんと二人きりになったところで、私、思い切った提案をしたんです。「特別なベッドを、庭に用意させてるわ。好きな人と使って」って。そして、鍵を一つ渡したの。それは、庭を開ける扉の鍵ね。お義姉さん、その後一人になってからじっと鍵を見つめて逡巡していたみたいだけど、結局決意して、それをポケットに入れた。そしてカーチャ義姉さんが退出した後、カバニハとジコイが部屋に入ってきます。で、この人でなし二人がいかにも人でなしな会話をするところで、オペラの場面は一区切りとなります。
〔 第2幕・第2場 〕・・・草木が生い茂る急斜面の岸辺。夜。
私の彼氏クドリヤーシがギター片手に、民謡の恋歌を歌います。そこへ、ボリスがやって来ます。手引きしたのは、この私。へへっ。で、間もなくカーチャも、(私の手配どおり)現れることになっています。そこで、私とクドリヤーシはいったん退散。やがて、カーチャと会ったボリスは彼女への熱い思いを打ち明けます。カーチャ義姉さんも最初は、「私は人妻です」って厳しい言い方で答えるんですけど、彼女は決してボリスを拒否するためにわざわざここへ来たんじゃありません。機が熟したな、と思えるタイミングで私が間に入って、「じゃ、お二人さん、いいわね?戻らなきゃいけない時間がきたら、こちらから合図します」って、背中を押してあげたの。で、二人は連れ添って夜の闇に消えていきます。
でね、私思うんですけど、どうにもならない状況から脱出するためには、やっぱり人は何らかのリスクを取らなきゃいけない、ってことなんですよね。クドリヤーシが、「おい、これ、本当に大丈夫か」って心配そうな顔をするから、私、答えたわ。「カバニハは今ぐっすり寝ているし、そのうちジコイが来れば、また人でなし同士で話が盛り上がるでしょ。平気、平気。それにグラシャが見張ってくれてるから、万一の時には合図してもらえるし」って。・・・あっ、ボリスとお義姉さんの声が聞こえる。すごく幸せそうな声。やったね、お義姉さん!―やがて、夜中の1時。そろそろかな、という時刻になったので、私は二人に帰るよう合図を送りました。そしてお義姉さんとボリスがそれぞれの帰途につき、第2幕の終了となります。
―とまあ、こんな感じで最初の逢引が首尾よく行って、それから二人の逢瀬が夜ごと続くようになるんですけど、この「道ならぬ恋」の成就はやがて、お義姉さん自身の心を引き裂いてしまうことになります。この続き、ドラマの幕切れまでの展開については、次回。どうぞ、お待ちくださいね。
今回は、ヤナーチェクの歌劇<カーチャ・カバノヴァー>の第2回。ドラマの幕切れまでの展開と、2つの全曲録音の聴き比べのお話。
〔 第3幕・第1場 〕・・・草と薮に囲まれた廃屋。今にも雨が降りそうな雲の様子。午後の遅い時間。
私の彼氏クドリヤーシと友人のクリギン(Bar)が、雨を避けるため廃屋に立ち寄り、そこで壁画を巡ってのおしゃべりを始めます。やがて、雨でびしょ濡れになったジコイもやって来ます。クドリヤーシが避雷針の効果についての話を持ちかけると、ジコイは答えます。「嵐というのは、神がくだされる罰だ。そこから身を守ることなど、できん」。(この言葉、これから始まるカーチャ義姉さんの悲劇を予言しているみたい・・・。)
ここから、事態は急展開。通りかかったボリスに、私、必死で伝えます。「チホンはもう旅から帰って来てるんだけど、あれからカーチャの様子がおかしいの。熱にうなされたようで、青ざめて、本当に変なのよ。そのうち、秘密を全部自分からしゃべってしまいそう。カバニハも、何か嗅ぎつけたみたい」。雷鳴が響きます。嵐が来ます。
やがて、私の姿を見つけたカーチャ義姉さんがやって来て、怯えきった様子で私の手をつかみます。続いてジコイとカバニハ、そしてチホンが現れると、お義姉さんは錯乱状態に陥ります。で、とうとう、夫の留守中にやっていた事をすべてしゃべってしまうんです。「カーチャは気が変になって、おかしなことを口走っているだけ。こんな話、真に受けちゃだめよ」って、私、必死になってみんなに言ったんだけど、・・・無駄でした。「相手の男は、誰じゃ」ってカバニハが訊くのに対し、お義姉さんは真正直に「ボリスです」って答えちゃう。そして一人、激しい嵐の中に飛び出していきます。居合わせた人たちもすっかり動転し、それぞれに散っていきます。ああ、こんな形で、破滅のときが来るなんて・・。
〔 第3幕・第2場 〕・・・ヴォルガ川の岸辺。夕方の遅い時間。
召使と一緒に歩いてきたチホンが、苦しい胸中を語ります。「最悪だ。カーチャのことを『生き埋めにしろ』っておふくろは言うんだけど、俺、あいつに危害を加えるような事なんかできないよ。愛しているから」。
彼らが去ったのに続いて、私とクドリヤーシの会話シーンになります。私もあれから、家でこっぴどい目に遭わされました。このままここにいたら、将来どんなことになるか分からない。・・・そんな話をしたら、「一緒に、ここから逃げよう」って、彼は言ってくれました。私はもちろん、二つ返事でOK。そして手に手を取って、モスクワへ行くことに決めたんです。今みたいな閉塞状況から抜け出して、二人で新しい生活を始めるためにね。さようなら、お義姉さん。(※で、私はこれでお話の舞台からは消えるんですけど、今回のご案内については最後まで務めさせていただきますね。)
ヴォルガの川べりを、カーチャ義姉さんがふらふらと歩いてきます。少し気持ちが落ち着いた様子です。そこで、お義姉さんはばったりとボリスに出会い、二人して最後の抱擁を交わします。ボリスはジコイに命じられてシベリアへ行かされることになっていたのですが、彼はその事をここでカーチャに伝えます。一緒に行けたら、と願うカーチャでしたが、「それはとても出来ない話」と、すぐにあきらめます。ボリスと別れた後、一人になったカーチャは、自分のお墓の周りを飛び回る小鳥たちや、そこに生い茂る花々のことを歌い、ついに川へ身を投げてしまいます。
対岸からそれを目撃したクリギンと他の通行人が、「女の人が川に飛び込んだ!ボートを出せ」って、救助に走ります。そして、その騒ぎを聞きつけたチホンが、「あれはカーチャだ。助けに行く」って叫ぶんだけど、「お前がそんな危ないことをするほど、あれは価値のある女じゃない」と言って、カバニハが彼を引き止めます。その時チホンは初めて、母親に抗議の言葉をぶつけます。「あいつを死に追いやったのは、母さんだ」。でも、カバニハには全然こたえません。「お前、誰に口きいているんだい」って。
やがて、悲しい水死体になったカーチャ義姉さんの亡骸が運ばれてきます。「ほいよ、カティエリーナさんだ」と告げるジコイの声を受けて、チホンが激しく泣きじゃくります。続いて、カバニハが集まった人々に挨拶をしますが、その挨拶がこのオペラの全曲を締めくくる言葉となります。
「へえ、へえ、ありがとうごぜえます。ご親切な皆様、ご苦労様でごぜえました」。
―歌劇<カーチャ・カバノヴァー>の全曲録音から
●ヤロスラフ・クロムブホルツ指揮プラハ国民劇場管、他 (1959年・スプラフォン盤)
LP時代には、このオペラを代表していたステレオ初期の名盤。まずカバニハを歌うリュドミラ・コマンツォヴァーやボリスを歌うベノ・ブラフト他、出演歌手陣が粒ぞろいで、いわゆる「めり込み」がない。ヴァルヴァラを歌うイヴァナ・ミクソヴァーも、役柄の性格を闊達に表現しているし、ジコイ役のズデニェク・クロウパも、声の雰囲気がいかにも“因業なジジイ”といった感じで非常に良い。タイトル役のドラホミーラ・チカロヴァーも、まずは水準に達した出来栄え。(ただ、カーチャが死を決意する場面では、もう少し劇的なパワーがほしいと思われたが。)クロムブホルツの指揮も優れたものだ。後述するマッケラス盤の登場によって、今はいささか渋い印象を与えるものになってはしまったが、オーケストラの素朴な色彩感や自然なフレージング等、いかにもヤナーチェクのオペラらしい味のある演奏を聴かせてくれる。
●チャールズ・マッケラス指揮ウィーン・フィル、他 (1976年・デッカ盤)
マッケラス&ウィーン・フィルによる、一連のヤナーチェク録音の一つ。抒情的な旋律を時にしっとり、時にねっとりと奏でる弦の美しさ、驚くほどに表情豊かな管楽器群、そして鋭く立ち上がるティンパニーの威力等、オーケストラ・パートの雄弁さについては、やはりさすがの名演と言うべきだろう。
しかし歌手陣には、残念ながら凸凹がある。良い方ではまず、カバニハを歌っているナヂエジダ・クニプロヴァー。この人は、先頃語ったグレゴル盤<イェヌーファ>で素晴らしいコステルニチカを演じていた人だ。そちらの録音と比べると、ここでの声はいくぶん衰えたものになっているかもしれないが、やはりその強烈な存在感は健在である。ボリス役のペテル・ドヴォルスキーも好演。チホン役のウラジミール・クレイチーク、そしてクドリヤーシ役のズデニェク・シュヴェーラも不足なし。
一方、それ以外の歌手については、不満の感じられる部分も少なくない。たとえば、ジコイを歌うダリボル・イェドリチカ。この人は一応バス歌手なのだが、その声質はすっきりとしたバリトーナルなものだ。だから、<利口な女狐の物語>に出てくる森番とか、<マクロプロス事件>のコレナティみたいな役には良かろうけれども、ジコイのようなクソジジイ役にはちょっときれい過ぎて物足りない感じがする。タイトル役のカーチャを歌っているのは、<イェヌーファ>の時と同様、エリーザベト・ゼーダーシュトレーム。この人の歌唱に対する私の感想は、例によってだが、あまり芳(かんば)しいものではない。熱演であることは認められるものの、どうも私の胸に響いてこない。ヴァルヴァラ役のリブシェ・マーロヴァーも全く平凡で、クロムブホルツ盤で歌っているミクソヴァーに比べるとかなり印象が薄い。
(PS) カーチャ・カバノヴァーとカテリーナ・イズマイロヴァ
さて、オペラ通の方なら既にご存知のことと思われるが、今回語ったカーチャ・カバノヴァーと名前もそっくりなら、たどった運命もそっくりというヒロインが、他にもう一人いる。ショスタコーヴィッチ・オペラの主人公カテリーナ・イズマイロヴァである。二人とも同じファースト・ネームを持ち、それぞれカバノフ家、イズマイロフ家という豪商の家に嫁いで不幸な結婚生活を送り、不倫に走る。その後に続く展開はまるで違ったものになってくるのだが、最後の死に方はどちらも水死。―とまあ、かなりの共通点を持った者同士なのである。今回はしばらくヤナーチェク・オペラのシリーズということで話を続けていこうと考えているが、ショスタコーヴィッチの歌劇<カテリーナ・イズマイロヴァ(※オリジナル版は、<ムツェンスク郡のマクベス夫人>)も、いずれ機会を見て取りあげてみたいと思う。
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「歌劇<利口な女狐の物語>(1)」2008年12月06日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/32b45d23301115c660bbe94df2da27af]
皆さん、こんにちは。これから始まるのは、ヤナーチェクの歌劇の中で多分一番有名な<利口な女狐の物語>です。森の住人を代表してってことで、おいらが語り役をまかされちゃったんだけど、え、本当においらでいいのかな・・。でもまあ、とりあえず始めさせておくれ。
〔 第1幕・第1場 〕・・・森の峡谷。晴れた夏の日の午後。
ここは、主人公が登場するまでの流れが紹介されるところだよ。穴熊が穴から顔を出してパイプを吹かし、ハエやトンボがその周りを踊ってる。やがて、肩から銃を下げた森番のおじさん(Bar、B)がやってきて、そこで一休み。で、そのうちグーグー寝入っちゃう。こおろぎやキリギリスが、おじさんの周りを踊る。おじさんの鼻に蚊(T)がとまって、チクリとやる。でも、おじさん酔っ払ってたから、蚊の方もアルコールにやられてふらふら。で、その蚊を狙ってカエル(S、Boy‐S)が出てくるんだけど、捕まえきれずに逃げられちゃう。すると今度は小さな女狐が顔を出し、「ねえ、ママ、これって食べられる?」って、カエルのことを指してきくんだ。びっくりしたカエルが思いっきり飛び跳ねて、おじさんの顔に乗っかったもんだから、おじさん、ハッと目を覚ます。そして目の前にいる小さな女狐が気に入って、ばしっ!と捕まえ家に向かう。捕まった女狐の名は、ビストロウシュカ(S)。このオペラの主人公、ってわけ。えーと、名前が難しいから、ここから先は、「女狐のおねえちゃん」って呼ぶね。
〔 第1幕・第2場 〕・・・森番の家。季節は秋。太陽が輝く午後。
女狐のおねえちゃんが泣いているところに森番の飼い犬ラパーク(Ms)が声をかけ、二人の会話が始まる。そのうちラパークが尻尾を使っておねえちゃんを引き寄せようとするんだけど、「この恥知らず」って、おねえちゃん、それをひっぱたいて振りほどく。そこへ、森番夫婦の子供ペピーク(S)が、悪友のフランチーク(S)を連れてやって来る。そして、紐でつながれてるおねえちゃんを棒で突っついたりして、いじめるんだ。当然、おねえちゃん怒ってさ、にっくき相手に噛みついての猛反撃。ちょっとした騒ぎになる。その後、帰ってきた森番のおじさんに子供は叱られたんだけど、おねえちゃんも前よりきつく縛られることになっちゃった。やがて夜になって、おねえちゃんがまたおいおい泣くんだね。そして、夜が明ける。(あ、この夜明けの場面って、すごくいい音楽が流れるんだよ。)
続いては、森番夫婦が飼っているニワトリたちと、おねえちゃんのやり取り。雄鶏(S)がおねえちゃんのこと、「あんた卵が生めないんだろ」とか言って挑発するんだ。めんどりたちも一緒になって、「あたしたちは働いてるよん。卵生んでるよん」って歌う。おねえちゃん、「あんたたち!雄鶏なんて自分の性欲を満たしてホクホクしてるだけなんだからさ、一緒に立ち上がって、新しい世界秩序を造ろうよ」って、めんどりたちに呼びかけるんだ。でも、相手らはぜんぜん乗ってこない。「雄鶏なしの世界なんて、ありえなーい」って。それで女狐のおねえちゃん、マジ切れしちゃって、次々とニワトリたちを殺していく。おー、こわっ。やっぱり、肉食動物だね。森番のおかみさん(A)がそれを見て、「あひゃあ」って気を失いそうになるんだけど、しっかり持ち直して、おじさんを呼ぶ。で、森番のおじさんが棒を持っておねえちゃんを懲らしめようとすると、おねえちゃん、ついに紐を噛み切って逃走。ここで、第1幕が終了。
〔 第2幕・第1場 〕・・・第1幕第1場と同じ場面。午後の遅い時間。
自由になった女狐のおねえちゃん、穴熊(B)の住処が気に入って狙いをつけた。で、うまく言いがかりをつけて相手を悪者に仕立て、周りの動物たちを味方につけていくんだ。そしてついに、穴熊を追い出しちゃう。で、その後に自分がちゃっかり住みついちゃうんだよね。穴熊のおじさん、かわいそ・・。
〔 第2幕・第2場 〕・・・パーセクの宿屋にある「紳士の部屋」。夜。
校長先生(T)と森番のおじさんが、トランプをやってる。そこへ、穴熊にそっくりな顔をした牧師さん(B)が入って来て、3人のおしゃべりが始まる。やがて雄鶏が鳴いて、先生は家に帰ろうと宿を出る。で、牧師さんも、その後に続く。森番のおじさんが一人残るんだけど、宿屋の主人パーセク(T)に逃げた女狐の話をまた蒸し返され、おじさん怒って宿を出て行く。「あれは逃げていった。それだけのことだ。あの狐をまた探そうなんて、そんな気はねえよ」。
〔 第2幕・第3場 〕・・・森の中。左手側に、上り坂の小道がある。ひまわりが茂る垣根。
帰宅途中の校長先生が、酔ってふらふらと歩いてくる。で、うっかり転んじゃって、ひまわりを見上げると、暗闇に光っている眼が見えるんだ。それって、女狐のおねえちゃんがそこにいるってことなんだけど、先生は酔ってるから、その眼が好きな女性のものに思えちゃう。ずっと恋していたテリンカって人の眼にね。「おお、テリンカ、テリンカ、愛しているよ」って、先生は駆け出すんだけど、またすっ転んで垣根の向こうにあるひまわりの中に落っこっちゃうんだな、これが。(笑)
続いて牧師さんがやって来て、昔の苦い思い出を口にする。なんでも牧師さんには若い頃恋人だった女性がいたらしいんだけど、その人は肉屋の徒弟とできちゃってたんだって。で、彼女が妊娠したっていうんで、当時神学生だった牧師さんが責められて、つらい思いをしたとか。でも妊娠させた男は、その徒弟の方だったんだよね。いろいろあるね、人生って。
やがて、バーン、バーンと鉄砲の音がする。校長先生も牧師さんもびっくりして、「おおっと、こんなところにいちゃいかん」って、そそくさと家路を急ぐ。森番のおじさんが撃ったばかりの猟銃を抱えて登場し、「くそっ、逃がしちまった。さっきのは間違いなく、あの女狐だった」って悔しがる。ここで、舞台は一区切り。
〔 第2幕・第4場 〕・・・森の中。女狐の穴ぐらの外。夏の月明かりの夜。
女狐のおねえちゃんにも、恋の季節がやって来た。おねえちゃんの巣穴の前をハンサムな雄狐(Ms、S)が通りかかり、二人の会話が始まる。おねえちゃんにはもうお母さんがいないこと、森番のおじさんに捕まったけど脱出したこと、そして穴熊から住処を奪ったこと、そういう話に雄狐は惹きつけられていくんだね。やがて、おねえちゃんに対する彼の関心は、恋心に変わっていく。雄狐はズラトフシュビーテクという自分の名前をおねえちゃんに言ってから、ウサギを取ってくるって、いったんそこを離れる。
やがて、おいしそうなウサギを捕まえて雄狐が帰ってきて、二人そろっての食事になる。お互いの心が、どんどん接近していく。「今まで僕は、尊敬できるような相手に出会うことがなかった。でも、君に恋をしてしまった」って、ズラトフシュビーテクは熱心に思いのたけを打ち明けるんだ。はじめはためらって、彼を拒むような素振りを見せていたおねえちゃんだったけど、彼の熱いアプローチを受け、自分も好意を持っているって答える。それを見ていたふくろう(A)が、「ビストロウシュカったら、お行儀悪い」なんて叫びながら、森の中へ飛んでいく。やがて日が昇ると、女狐のおねえちゃんと雄狐は二人揃って、キツツキ(A)のところへ行くんだね。で、キツツキさんが牧師の役を引き受け、二人の結婚式をつかさどるんだ。森全体が、にぎやかな合唱と踊りで二人の結婚を祝う。めでたいな、めでたいなってところで、第2幕が終了。
―この続き、最後の第3幕については次回です。しばらく、待ってておくれ。
「歌劇<利口な女狐の物語>(2)」2008年12月16日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/f4f0da6b7025502797a712451962d6b3]
前回の続きで、ヤナーチェクの歌劇<利口な女狐の物語>。今回は第3幕の内容と、3つの全曲盤についてのお話。
〔 第3幕・第1場 〕・・・森のはずれ。秋の日のお昼どき。
鶏の行商人ハラシュタ(B、Bar)が登場し、民謡の恋歌を歌う。そこへ森番のおじさんもやって来て、二人のおしゃべりが始まる。ハラシュタって密猟もやってるから、それを取り締まる森番のおじさんとは顔見知りになってるんだね。で、そのおしゃべりの中身なんだけど、なんでも、ハラシュタは間もなく結婚することになっていて、お相手はテリンカって人らしいんだ。(校長先生の恋、終わっちゃった・・・。)
その後森番のおじさん、狐の足跡を見つけたもんだから、罠をしかけて去っていく。続いてそこへ、たくさんの子狐を連れたおねえちゃん夫婦がやってくる。(おねえちゃんもそれなりに、年を取ったみたいだね。)で、みんな揃って、おじさんの下手な仕掛けをあっさり見破っちゃう。「これは変だぞ。気をつけろ」って。ハラシュタがまた戻ってきたので、狐一家はさっと隠れる。そこでおねえちゃんの姿を目にしたハラシュタが、「こりゃテリンカに贈るマフに出来そうだ」って、狙いをつけるんだ。で、おねえちゃんがうまいことその相手をしている間に、子供たちがハラシュタの荷かごに集まり、中にいた鶏をどんどん食べてっちゃう。それに気づいたハラシュタはもう怒りまくって、「これでもくらえ」って、おねえちゃんの方にバーン、バーンって、銃を撃つ。で、その一発が、まともに命中しちゃうんだね。女狐のおねえちゃん、死んじゃった。声も立てずに、死んじゃった。
〔 第3幕・第2場 〕・・・パーセクの宿屋の庭。いつになく静か。
森番のおじさんが、校長先生に言う。「女狐の巣穴は、空っぽだったよ」。そして、「また、ひまわりに言い寄っていたのか」って先生をからかうんだけど、先生はテリンカさんが結婚するのをもう知ってたから、「それは全部終わったことだ」って、横を向いて涙を隠す。森番のおじさんが、宿を出ようとする。「まだ早いのに、どこへ行くんだい」って先生が訊くので、おじさんは答える。「森へ行って、それから家に帰るんだ。犬のラパークがもう、歩けなくなっていてな。すっかり年を取っちまったんだよ、ちょうど俺たちみたいにさ」。
〔 第3幕・第3場 〕・・・オペラの冒頭と同じ、森の峡谷。日が沈むところ。
森の中で一人、おじさんは青春時代のことを懐かしく思い出す。結婚式の翌日、この大地に奥さんと寝転んだこととかね。「あれはおとぎ話か、それとも本当のことだったのか。何年前だい、若かった俺たちが二人して歩いたのは・・・」。そして木にもたれて休んでいるうち、おじさんは眠りに落ちて夢を見る。
夢の中で、おじさんは起き上がる。小さな女狐が目に入ったんだ。「おや、ビストロウシュカじゃないか。いや、違う。あいつの子供か。なんだい、お前、母さんにそっくりじゃないか。よーし、捕まえてやるぞ。今度は、お前の母さんのときよりもっと上手に飼ってやるからな」。そうしておじさんが伸ばした手の上に、ぴょんと飛び乗ったのが、おいらさ。へへーっ。ここでやっと、おいらの出番。おじさん、「お前、どうやってここに?」って、おいらに見覚えがあるような様子を見せたから、おいら言ってやった。「あのときのカエルはおいらじゃなくて、おいらのじっちゃだよ。じっちゃがおじさんのこと、いろいろ話してくれたんだ」。そして、森の動物たちや昆虫たちがおじさんの周りを舞い踊り、音楽が大きく盛り上がって、オペラは感動のフィナーレを迎えるんだ。
(※で、そのときなんだけどさ、おじさんしばらくおいらを見て、なんかじーんとしたような顔をしたんだよね。おいらにはその意味がわからなかったんだけど、「良いものも悪いものも新たになって、引き継がれる命の中を循環する。―そういう自然の営みに、おじさんは深~く感じ入ったんじゃよ」って、ばっちゃが言ってた。)
―歌劇<利口な女狐の物語>の全曲録音から
●ボフミル・グレゴル指揮プラハ国民劇場管、他 (1970年・スプラフォン盤)
LP時代の代表的な名盤。グレゴルの指揮は作品への深い共感に溢れ、心のこもった暖かい名演を生み出している。場面によっては、もう少しドラマティックな力が望まれる部分もなくはないが、音楽の自然な呼吸が心地よい。歌手たちの中では、ビストロウシュカを歌うヘレナ・タテルムスホヴァーがまず見事。おきゃんで、小ずる賢い女狐のキャラを、彼女は生き生きと歌いだしている。これは同役の歌唱表現として、一つの模範とさえ言えるような名唱である。続いては、牧師&穴熊を歌うダリボル・イェドリチカが良い。伸びやかな声で端正に歌っているのが、聴き手に好印象を与える。それ以外の歌手たちも、(特に名唱と言うほどではないにしても)それぞれの役を不足なく演じていて、粒の揃ったアンサンブルを形成している。その他、子狐たちを演じる児童合唱、子供時代のビストロウシュカを演じるソプラノ歌手、そして小ガエルを演じるソプラノ歌手も、皆愛嬌があってとても可愛らしい。
●ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィル、他 (1979~80年・スプラフォン盤)
指揮者、オーケストラとも、非常に手馴れた印象を与えるすっきりタイプの演奏。そのけれん味のなさは一つの長所なのかもしれないが、逆にあっさりし過ぎて物足りなく感じられる部分も少なくない。特にラスト・シーン。ここはもっと盛り上げてほしい。歌手の中では、森番を歌うリハルト・ノヴァクが抜群の出来栄え。貫禄のあるバスの声で、全編にわたって卓越した歌唱を聴かせる。ビストロウシュカを歌うマグダレーナ・ハヨーショヴァーも巧いが、声はややおばさんぽいイメージ。それ以外では、雄狐役のガブリエラ・ベニャチコヴァー、牧師&穴熊役のカレル・プルーシャが好演。その一方、子役を演じる歌手たちがうまくなかったり、子狐たちを歌うキューン合唱団が大人っぽ過ぎてかわいくなかったりで、細かいところにあちこち不満が感じられる演奏でもある。なお、森番とハラシュタが撃つ鉄砲の音については、上記グレゴル盤がシンバルやドラムを使ったオースドックスなものであるのに対し、ここでは銃声の効果音が使われている。
●チャールズ・マッケラス指揮ウィーン・フィル、他 (1984年・デッカ盤)
上記のグレゴル盤とは対照的に、極めて鮮烈な響きを持つドラマティックな演奏。明晰なサウンドの中に様々な楽器のモチーフがくっきりと浮かび上がり、この演奏を聴いて初めて、「ああ、こういう音型が鳴っていたのか」と気づかされ、教えられることが多い。第1幕を締めくくるビストロウシュカの逃走シーンなど相当パワフルだし、第3幕の冒頭に至っては、もう凄絶とさえ言っていいほどの爆演である。録音も優秀だ。ただその一方で、“メルヘン的な、素朴な温かみ”みたいなものが不足しがちに思えることも否定できない。「どの本を見ても絶賛されているので買ってみたが、あまり感動しなかった」という方も、案外おられるのではないだろうか。私の率直な感想を言えば、この演奏、いささか余情に乏しい憾(うら)みがある。
牧師&穴熊で名唱を聴かせるリハルト・ノヴァクをはじめ、歌手陣は総じてハイ・レベル。ただ、ビストロウシュカを歌うルチア・ポップについては、ちょっと微妙なものを感じる。確かに、「音楽的な、美しい歌唱」という点で彼女の歌が最高のものであることは、間違いないと思う。しかし、このどこか“お姫さま的”に聞こえる名唱は、私の心に今ひとつ感動を呼び起こしてくれないのである。グレゴル盤のタテルムスホヴァーが、「小ずるいけれど、一所懸命に人生を生き抜いた女狐」というヴィヴィッドなイメージを聴き手に伝えたのに対し、ポップの美演はちょっときれい事に終っているような印象を私は受けてしまうのだ。後は例のごとくだが、お聴きになった方がご自身の感性で判断を下していただけたら、と思う。なお、ハラシュタがぶっ放す鉄砲の音については、いかにもデッカらしい派手な効果音が使われている。上記ノイマン盤で聞かれるものよりもさらにでかい音で、ドバアァーン!これはさすがに、やり過ぎだろうと思った。
―日本製アニメ作品への、かなわぬ(?)希望
歌劇<利口な女狐の物語>は、ケント・ナガノの指揮によるアニメ版DVDが日本でも発売されていて、その一部分を現在「ようつべ」で視聴することが出来る。先日それをちょっと見て、「なるほど、このオペラはアニメ向きだな」と思ったのだが、ナガノ盤を買ってみようという気持ちにはなれなかった。全部を聴いたわけではないので断言は出来ないが、ナガノの指揮は良いものだと思う。しかし、歌詞がよりによって英語で、音楽とズレまくること甚だしいのである。登場キャラクターの絵柄も、あまり私の好みではなかった。
そこで考えたのは、「誰か日本の製作者が、このオペラのアニメ版を作ってくれないかな」ということであった。音源には上のグレゴル盤あたりを使用して、動画を日本人スタッフが作るのだ。細やかで美しい自然の風景描写、かわいらしい登場人物、そして生き生きした表情と滑らかな動き。日本人の感性とアニメ技術をもってしたら、きっと素晴らしい物が出来るんじゃないかと思えるのである。(尤も、宮崎アニメみたいな変な癖のある絵は、御免こうむりたいが。)商業的な採算は見込みにくいかもしれないが、文化的な価値は決して低くないと思う。各国語の字幕をつければ、海外市場にも十分売り出せるのではないだろうか。
◆ヤナーチェク:歌劇『利口な女狐の物語』/ウラディーミル・ユロフスキ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、他(2012年グラインドボーン音楽祭)[Blu-ray]【Amazon】

「歌劇<マクロプロス事件>(1)」2008年12月26日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/3b3c3f844d71bdc83d57672dd975f7e8]
皆様、はじめまして。私、弁護士のコレナティー(B、Bar)と申します。ブログ主さんに代わりまして今回私の方からお話しさせていただきます題目は、マクロプロスの事件です。実はこの一件、色々とややこしい経緯があるのですが、かいつまんで事の起こりを申し上げますと、大体次のような感じになろうかと思います。
富豪のヨゼフ・プルス男爵(通称ペピ)が1827年に死去し、その莫大な資産をいとこのエメリヒ・プルスが管理することになりました。遺書も残されておらず、法的な相続人もいなかったからです。しかしこの相続に、グレゴル家が異議を唱えました。「ヨゼフ・プルス男爵は生前、グレゴル家のフェルディナンドにロウコフの領地を譲るという遺言をしていた」というのが主張の根拠です。それに対しプルス側は、「ヨゼフが死の床で口にしたのは、ヘル・マッハ・グレゴルという名前だった。フェルディナンドではない」と返します。
結局、お互いの言い分を裏付ける決定的な証拠が出てこないため、この訴訟は実に100年間も続いてきたのでした。私はグレゴル家から訴訟の代理人を引き受けている立場にあるのですが、どうもこの案件、グレゴル側にとって不利な判決が出そうな流れになっております。しかし、そこにある女性が現れ、事態は思わぬ展開を見せることになるのです。そこから始まるのが、ヤナーチェクの歌劇<マクロプロス事件>【注1】の物語です。
〔 第1幕 〕・・・コレナティーの事務所にある秘書の部屋。
私の秘書ヴィーテク(T)が、プルス家とグレゴル家の間に起こっている訴訟関係の書類を整理しております。やがて依頼人のアルベルト・グレゴル(T)がやってきて、彼とおしゃべりを始めます。アルベルトは財産が手に入るという前提で、すでに大きな借金をしてしまっているようです。そこへ、ヴィーテクの娘であるクリスタ(S、Ms)が入ってきます。彼女はオペラ歌手になる勉強をしている最中で、前の晩に大歌手エミリア・マルティ(S)の歌を聴いて大感激したと、夢中になって語ります。
続いて、私コレナティーの登場です。法廷から帰ってきたところ、というわけですが、たった今クリスタが話していたエミリア・マルティその人も、私と一緒です。と言いますのも、「新聞記事で見たこの一件に興味を持ったので、詳しい話を聞かせてほしい」と、“世界最高の歌手”である彼女が、私に申し入れてきたからです。で、事務所で色々とこの件についてお話ししてみますと、彼女はこの案件についてただならぬ関わり、と言いますか、ちょっと普通でない情報を抱えているらしいことが分かってきます。彼女は、こんな事を言うのです。
「ヨゼフ・プルス男爵が死の床で口にしたマッハ・グレゴルって名前は、スコットランド系の名字マクグレゴルのことよ。当時エリアン・マクグレゴルってオペラ歌手がいてね、彼女はプルス男爵の愛人だったの。フェルディナンドというのは、彼女と男爵の間に出来た子供。つまり、隠し子ね。そのフェルディナンドに宛てた男爵の遺言書ってのが、実はちゃんとあるのよ。どこにかって?プルスさんのお屋敷の、戸棚の引き出し。1816年という年号・日付の付いた引き出しよ。行って見てごらんなさいな」。
私はそんな突拍子もない話を真に受ける気はしなかったのですが、フェルディナンドの子孫であるアルベルト・グレゴルはそれを聞いて大喜びします。これで裁判に勝てると。そして、「あなたが行ってくれないなら、他の弁護士に頼むからいい」などと言い出しますので、私はあわてて腰を上げ、プルス男爵のお屋敷にお邪魔させていただくことにしました。一方、その場に残ったアルベルトは、エミリア・マルティに熱心な愛のアプローチを始めます。彼は美貌の大歌手にいきなり魅了されてしまったようです。しかしエミリアは、そんな若造の口説き文句など歯牙にもかけません。
やがて、現在訴訟に立ち会っている相手方のヤロスラフ・プルス男爵(Bar)と一緒に、私が事務所に戻ってきます。いや、驚きました。エミリア・マルティが言ったとおりのものが、言ったとおりの場所にあったのです!私は彼女にお詫びしました。ヤロスラフ・プルス氏は、「確かに遺言書は見つかったが、ここに書かれているフェルディナンドが、間違いなくフェルディナンド・グレゴルであることを証明できなければ、まだ納得いかないね」と、至極もっともな事を言います。するとエミリアは、「それを証明するものを、用意しますわ」と彼に約束します。ここで、第1幕が終わります。
(※さて、上では今省略してしまったのですが、オペラ歌手のエミリア・マルティがこのややこしい訴訟案件に首を突っ込んできた目的は何だったのか。それについては彼女自身が、上のアルベルトとのやり取りの中ではっきりと口にしております。私はその真意をずっと後になって知ったわけですが、彼女は別に、今回見つかった遺言書がほしかったのではありません。あるいは、それによって得られることになりそうな巨額の財産でもありません。実はその遺言書と一緒にしまってあるはずの、もう一つの文書がほしかったのです。「ギリシャ語で書かれた、ある文書」、すなわちマクロプロスの秘伝の書が・・・。)
―この続き、第2幕から先の展開については次回です。どうぞ、しばらくお待ちください。
【注1】 <マクロプロス事件>というタイトルについて
このオペラの原題である< Vec Makropulos >には、ぴったりくる日本語訳がないようだ。文字通りに直訳すれば、「マクロプロスの事」みたいになるらしいのだが、それでは作品タイトルとして何か物足りない。「マクロプロスの秘密」、「マクロプロスの記録」などといった候補が研究者たちから提案されてきた一方、ドラマの中で vec という語が実際に出てくるのがマクロプロスの秘伝の書を指す場面であることから、「マクロプロス家の秘伝」と訳すのが良いだろうという意見も現在かなり有力なようである。実は当ブログでも、その「マクロプロス家の秘伝」を使おうかと最初は考えた。しかし、ネット上で「マクロプロス 事件」と「マクロプロス 秘伝」をそれぞれ検索してみたら、圧倒的に前者のヒット数の方が勝っていたのである。そんな流れで、結局<マクロプロス事件>というタイトルを今回使用することに決めたのだった。なお、LPレコードの時代に「マクロプロスの場合」という訳語を目にしたこともあったが、これはどうやら淘汰されて消えたようである。
「歌劇<マクロプロス事件>(2)」2009年01月02日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/e32dddf3a0bcb086a1b42c90eb858da6]
前回の続きで、ヤナーチェクの歌劇<マクロプロス事件>。今回は、第2幕と第3幕前半の内容。
〔 第2幕 〕・・・大きな劇場の中。上演後の片づけ中。
掃除婦(A)と舞台の電気係(B)が、先ほど終わったエミリア・マルティの公演について話しています。大歌手の信じられないような名唱、聴衆の熱狂、そして50回にも及ぶカーテン・コール・・・。ヤロスラフ・プルス男爵がエミリアに会いたいとやってきますが、彼はそこでしばらく待たされることとなります。続いて、クリスタが男爵の息子であるヤネク(T)とともにやって来ます。この二人は恋人同士です。しかし、クリスタは彼よりも、自分の大きな目標である大歌手マルティのことで頭がいっぱいです。やがてエミリア・マルティが姿を見せますと、ヤネクはたちまち彼女の美しさに打たれ、夢中になってしまいます。まあ、例によってですが、大歌手は若者を軽くあしらい、「この人、おばかさんでしょ」と、彼の父親であるプルス男爵に言います。
ほどなくすると、エミリアに夢中になっているもう一人の若者、アルベルト・グレゴルが花束を持って現れます。彼と一緒にいるのは、私の秘書ヴィーテクです。アルベルトがお金に無理をしたのが分かっているエミリアは、花を受け取りません。続いて彼女は、そこにいるヴィーテクに向かって露骨なことを尋ねます。「あなたの娘さん、クリスタさんって、もう恋人とやったのかしら?男女のあれを」。・・・当惑する一同を尻目に、彼女は言葉を続けます。「もしまだやっていなくても、そのうちやるんでしょうね。でもね、そんなの、何の価値もないことよ」。それまで黙っていたプルス男爵が、ここで彼女に問いかけます。「ではマルティさん、何だったらする価値があると、あなたはおっしゃるのですか」。それに対するエミリアの答えは、極めて冷ややかなものでした。「何もないわ。価値のあるものなんて、何も無いのよ」。
するとそこへ、ちょっと変な人物が訪れてきます。ハウク=シェンドルフ(T)という名の、年のいった男性です。なんでも、若い頃はオペレッタ歌手として活躍していた人らしいのですが、その当時(今から50年前)、彼が憧れていたエウゲニア・モンテスという歌手にエミリアはそっくりだと、ここまで彼女に会いに来たらしいのです。この方、どうも様子が普通ではありません。しかし、エミリアは優しく親しげな態度で彼に対応します。
そのハウク=シェンドルフ氏が去った後、「娘のクリスタのために、写真にサインしてやって下さい」というヴィーテクの注文に、エミリアは応えます。次いで人払いを済ませると、彼女はヤロスラフ・プルス男爵と二人きりになります。男爵は自宅で、いくつか謎めいた文書を見つけたようです。「E・Mというイニシャル署名の付いた手紙が、見つかりました。エリアン・マクグレゴルでしょうか。ヨゼフ・プルスとの、ふしだらな性の告白が書かれていました。それと、先頃見つかった遺言書に関連することなんですが、ロウコフの領地を遺贈されたフェルディナンドという子供、出生登録簿ではフェルディナンド・マクロプロスとなっておりましてね。グレゴル姓ではないのです。1816年生まれで、母親の名はエリナ・マクロプロスとか。・・・ああ、それともう一つ、何やら封のされた文書もありました」。「その封書を売ってちょうだい」とエミリアは申し出ますが、男爵にやんわりとかわされてしまいます。
プルス氏が去った後、またアルベルト・グレゴルが戻ってきます。彼は激しくエミリアに言い寄りますが、やはり突き放されます。そして強い疲労を感じていた彼女は、そのまま眠り込んでしまいます。失意のアルベルトが出て行くと、今度はヤネクがやって来ます。彼もまた、エミリア・マルティの妖しい魅力にはまってしまった哀れな男の一人です。目を覚ましたエミリアは、「私をそんなに思っているなら、あなた、お父さんのところから私が言うとおりの封書を取ってきてちょうだい」と彼に命じます。ヤネクは応諾するのですが、そこへ突然、彼の父親であるプルス男爵が現れます。そして小心者の息子を追い払い、男爵はエミリアと取引を交わします。「あなたがほしがっている文書を、お渡ししましょう。代価はあなた自身、ということで」。
〔 第3幕 〕・・・ホテルの一室。夜明けのかすかな光。
エミリア・マルティと一夜を過ごしたヤロスラフ・プルス男爵は、約束どおり、彼女がほしがっていた秘密文書の入った封筒を渡します。男爵は今、激しく後悔しています。「氷のような女。まるで死体を抱いているようだった」。そこへ女中がやって来て、彼の息子ヤネクが自殺したことを伝えます。激しい衝撃に打ちひしがれるプルス男爵ですが、エミリアは平然と髪をとかし続けています。「あんた、よくそんな風に平気でいられるな」と責めるプルス氏に対し、「私に何ができるって言うの」と、彼女はしれっとした態度で答えます。
続いて、プルス氏と入れ替わるようにハウク=シェンドルフが入ってきて、「妻の宝石をくすねてきた。あなたと一緒に、スペインへ行きたい」とエミリアに申し出ます。彼女の方も、「あ、それ、いいわね」と乗り気になります。そして二人が旅立つ準備をしているところに、私たちが乗り込みます。揃った顔ぶれは、私コレナティーと秘書のヴィーテク、アルベルト・グレゴル、クリスタ、ヤロスラフ・プルス男爵、そして一人の医者、という面々です。このまま彼女を逃がすわけにはいきません。私は、100年前に書かれたという書類を差し出し、「あなたが先日クリスタのためにしてくださったサインと、筆跡が全く同じですね」と言って、彼女に迫りました。するとエミリアは、「裁判なら受けてたちますよ。でもその前に、ちょっと着替えさせてくださいな」と言って席を外します。(もう一人、少しおかしくなっている男の方は、医者が連れ去りました。)
さて、彼女が別室に行っている間、私たちは彼女の持ち物を一斉に捜索しました。すると、出てくるのです。いろいろな手紙や書類が。エウゲニア・モンテス、エリアン・マクグレゴル、エルザ・ミュラー、エカチェリーナ・ミシュキン、いずれもイニシャルがE・Mとなるような名前のついた書簡。これらに書かれた文字もすべて、エミリア・マルティの筆跡そのものです。これで、私たちは確信しました。エミリアは文書の偽造をやっている!やがて着替えを終えた彼女が、ウィスキーのボトルを手に提げて戻ってきます。そしていよいよ彼女への尋問が始まるわけですが、そこで私たちは、まことに驚くべき話を聞かされることとなりました。
―この続き、ドラマの幕切れまでの展開については次回です。どうぞ、お待ちください。
「歌劇<マクロプロス事件>(3)」2009年01月12日 [https://blog.goo.ne.jp/kt2004rex/e/e4e12ffcaeea522c8be7d34f89da9928]
今回は、ヤナーチェクの歌劇<マクロプロス事件>の最終回。
〔 第3幕 〕~続き
私どもの尋問に対するエミリア・マルティの回答は、まことに信じ難いものでした。しかし、すべて偽りのない事実だったのです。以下、エミリアが語った驚愕の真実をご紹介させていただくところから、まとめのお話を始めてみたいと思います。(※一部ですが、本人のセリフ以外の言葉をこちらで補充させていただいた箇所があります。ご了承ください。)
「私の名は、エリナ・マクロプロス。年齢は、337歳。私の父はヒエロニムス・マクロプロスという名で、16世紀末に神聖ローマ帝国の皇帝だったルドルフ2世の侍医をしていた。・・・不老不死を願う皇帝の命令で、『300年の若さが得られる秘薬』を、父は作ったの。そして薬が出来上がると、当時16歳だった娘の私が、実験台として飲まされたわけ。私は意識をなくして、重体になった。騙されたと思って怒った皇帝は、父を投獄したわ。でも1週間後に目を覚ました私は、それから死ななくなった。そして父がギリシャ語で書き残した文書、つまり、“一服で300年の命が得られる薬の製法”が書かれた処方箋をもって、私はヨーロッパ各地を転々とするようになったの。名前と国籍を変えながらね。
そして今から100年前に、私はペピ(=ヨゼフ・プルス男爵)と出会って恋をし、フェルディナンドを産んだわ。その時の私の名は、エリアン・マクグレゴル。戸籍上はマクロプロス姓を使わなければならなかったから、子供の名前はその名字で登録することになったけどね。・・・私はペピと別れた時、例の処方箋を入れた封筒を、彼のところに置いていった。『また戻ってきてくれ』って、説得されちゃったから」。
そこまで語ると、エミリアは強い疲労を訴えて倒れます。彼女は寝室へ運ばれ、医師の手当てを受けました。この時ばかりは、私たちもちょっと彼女を厳しく問い詰めすぎたと反省しました。やがてエミリアがまた戻ってきて、オペラはいよいよラスト・シーンに入ります。
「ああ、こんなに長く生きるものじゃない。あなた方には、すべての物が意味を持つ。すべての物が価値を持つ。おバカさんたち。幸せな人たち。・・・私は父が残した秘伝の書を取り戻しにここへ来たけど、もういらないわ。これからまた300年生きたって、くだらないもの。誰かほしい人、いる?クリスタさん、あなたにあげるわ。有名な歌手になれるわよ、私のように。さあ、受け取って」。
私たちは、「そんな物をもらっちゃいかん」と止めましたが、クリスタは書類を受け取りました。そして彼女は無言のままそれを蝋燭の火にかざし、きれいに燃やしてしまいます。マクロプロスの秘伝の書は、完全に灰となりました。そしてそれを見届けたエミリア・マルティは、その場に崩れるように倒れこんだのです。【※1】歌劇<マクロプロス事件>は、ここで全曲の幕を閉じます。
【※1】 カレル・チャペックが書いた原作(1922年・舞台初演)では、「エミリアが最後に死ぬ」という形には必ずしもなっていないようだが、ヤナーチェクのオペラでは最後にエミリアが倒れ、どうやら彼女は死んだらしいことが示唆される。また、エミリア・マルティが最後、薬切れによって本来の337歳にふさわしい姿、つまり、「ミイラのような老婆の姿」にみるみる変容していくというホラー映画みたいな演出が施されたオペラ上演も、過去にはあったらしい。これは今の時代でも十分使えそうなエンディングで、いつか是非一度見てみたいものである。
―「300年の人生」を巡る登場人物たちの意見
チャペックの原作には、「300年の人生をどう思うか」について、各登場人物が語る場面があるらしい。ここで聞かれる意見はヤナーチェクのオペラ台本からすっぽりカットされていて、エミリア・マルティのセリフに少しだけ引用されている部分が見つかるにとどまる。しかし、この場面をちょっと見てみると、なかなか面白い発見がある。以下、チャールズ・マッケラス指揮ウィーン・フィル、他によるデッカ録音(1978年)の国内盤LPに付いていた解説書から、その該当箇所を一部抜粋・編集して書き出してみることにしたい。作品理解の一助としていただけたら幸いである。
●弁護士の秘書ヴィーテクの意見
「たかだか60歳までの人生で、一人の人間に何が達成できますか。・・・それこそ、生きたともいえないうちに死ぬようなものです。300年も生きられれば、はじめの50年で勉強し、次の50年で世の中を知り、すべての存在を知る。次の100年は他の人々の利益のために使い、人間として持つべきすべての経験を身につける。そして残りの100年は知恵の中に生きて、世を治め、人を教え、後世に手本を残すことに使う。・・・300年あれば、人間は誰でも完全無欠になって、真の意味で神の子になれるんです」。
●弁護士コレナティー博士の意見
「経済的、法律的見地からすれば、300年の人生なんて理屈に合わんよ。社会のシステムというのがそもそも、人生の短さの上に成り立っているんだから。契約、年金、保険、給料、遺言・・・みんなそうだ。結婚だってそうだろう。誰が300年も結婚していたいなんて思うかね」。
●ヤロスラフ・プルス男爵の意見
「300年の人生があり得るなら、それは有能な強者にだけ与えられるべきだ。・・・平々凡々たる連中が、誰も死なない。そしてせっせと休む間もなく、まるでネズミかハエのように子を産んで増えていく。死に絶えるのは偉大な人間ばかり。強くて有能な人間ばかり。それはつまり、そういった者たちに代わる人間がいないからだ。まあしかし、そういう優秀な種を保存するチャンスはあるかもしれん。・・・優れた人間が長寿を得る、つまり選ばれた少数による専制支配だ。頭脳による支配ということだ。・・・長寿を得る者が当然、人類の支配者となる」。
●実際に300年を生きたエリナ・マクロプロス(=劇中ではエミリア・マルティ)の意見
「300年なんて愛を持ち続けることは出来ないわ。希望だって、創造だって、物を観察することだって、300年は続かない。うんざりしてくるのよ。何をしても、退屈。退屈も時には良し悪しでしょうけどね。・・・でもそのうち、この世には何も存在しないってことが分かってくるのね。何も無いのよ。罪も、苦痛も、地面も、何にも無いの。ものが存在するってのは、ものに価値があるってことよ。並の人間にとっては、何でも価値があるわ。・・・あなたたちみたいなおバカさんは、幸せだと思うわ。腹立たしいけど。あなたたちは早く死ぬことができる。だから猿みたいに、まわりのものに興味が持てる。いろいろなものを信じることが出来る。愛を信じ、自分を信じ、徳を信じ、進歩を信じ、人類を信じ、・・・その他もろもろの事が信じられる」。
―マクロプロスという名前が暗示するもの
最後に一つ、付け足し話。上記マッケラス盤LPの解説書に、マクロプロスという名前の意味について興味深い文章が載っている。それによると、「プロス」というのは、“~の息子”を意味するギリシャ語の接尾辞だそうである。(そう言えば、ギリシャ系の名字に~プロスというのをよく見かけるような気がする。クラシック音楽界の例で言えば、ギリシャ出身の往年の名指揮者にディミトリ・ミトロプロスがいるし、ギリシャの名歌手マリア・カラスの本当の名字がカルゲロプロスであったことは、ファンの方ならきっとご存知のことと思う。)そして、前半の「マクロ」が“長い”という意味を持つ言葉であるとのことで、両者をつなげた「マクロプロス」は長寿を連想させるギリシャ系の名前、という仕掛けになっているようだ。
★以上で、当ブログに於けるヤナーチェク・オペラのお話は終了。次回は、ヤナーチェク・シリーズの締めくくりとして、<グラゴル・ミサ>を聴き比べた感想文を書いてみることにしたい。この個性的な名作については、私もこれまで相当数の演奏録音に触れてきたが、次回はその中から代表的な5種を厳選して語ってみようと思う。
◆ヤナーチェク:歌劇『マクロプロス事件』/エサ=ペッカ・サロネン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、他(2011年ザルツブルク音楽祭)[Blu-ray]【Amazon】
